ハルヒと主体とホームズと

※この記事では、いくつかのミステリの登場人物について触れているほか、あさーい知識で書いている部分が多々あります。

 

王道ミステリの探偵というのはどうにも変な人が多い。そして往々にして、それに振り回される常識人ワトソンの視点で物語が進んでいく。私はこの構造が大好きなのである。

やはり並外れて頭がいい人というのは多少変な人であってほしいと思っているので、ホームズなり御手洗潔なり、島田潔に火村英生、常識のない探偵とそれにやきもきする助手という構図は大いに魅力的だ。そもそも変わった事件に頻繁に巡り合うためには、ホームズのように事件のほうが向こうから舞い込んでくるようなブランディングのある私立探偵でない限り、ある程度奇人変人でなければならないというお話の都合もあるだろうが。

森博嗣によるS&Mシリーズは少しだけ違う構造であり、いわゆる探偵、最終的に謎を解くのは犀川創平であるが、余計なことに首を突っ込んでいくのは西之園萌絵のほうである。犀川氏も変わった人物ではあるが、助手の方が探偵を振り回すという面白い設定である。ワトソンや石岡といった明らかな定点常識人の目線で書かれたものではないが、犀川氏の独白も多く、萌絵に振り回される様子を堪能できるシリーズである。

犀川氏は一風変わっているとしても、ワトソンに石岡にアリスは皆奇人探偵に付き合っているという点で常識のある変な人であることは間違いないだろうから、結局その「意見はあるけれど主体性のない主人公」が「行動的すぎる変人」につきあわされ、振り回され、やれやれと言いながら結局満足している様子が読者のそういった欲求をうまく昇華しているのだろう。

ここで思い出されるのがかの名作『涼宮ハルヒ』シリーズである。

ハルヒといえば言わずと知れた有名ラノベ/アニメであり、平凡な主人公キョンが突飛すぎる多才な美少女涼宮ハルヒに振り回される学園生活を原則キョンの視点から描いている。「意見はあるけれど主体性のない主人公」が「行動的すぎる変人」につきあわされ、振り回され、やれやれと言いながら結局満足している話そのものである。

世の多くのオタクたちがハルヒに熱狂し、そんな酔狂な人と実際にはやっていけないだろうと思いつつもどこかでその面影を追い続けているのは、同じ構造だろうと思う。主体であり続けるのは面倒くさいし、意思決定はつらいし、だけれど自分を気に入った悪くはないけど変わった人がその人の責任において面白いことをどんどん持ち込んでくれないかな......と思っている。指示を受けたものならもう喜んでやれやれと言って従うことだろう。

細かい類似点は色々あると思うのだが、とりあえず私はここに主体性を持ちたくない人類たちのユートピアを見るのである。

これはおそらく多くのギャルゲー・乙女ゲーに見られるもので、最近では飽くまでバリエーションとして主人公の色が濃いものがあれど、基本的には多彩な個性の攻略対象と比較して主人公自身はあまりにも無個性である。ギャルゲーはだいたい勉強運動顔面性格家柄エトセトラ全てのステータスが50点の男子生徒が一人称であり、そこに情報通とかオタクとかときにはイケメンとか一つだけ特徴の追加された親友くんが登場しうる。乙女ゲーでは主人公はもう少し50点から逸脱しているものの作品を跨いでかなり画一的で、心優しく前向きでお人好し、少し賢くすぐに感動しすぐに順応する純粋な頑張りやさんが一人称となる。全ての乙女ゲーの主人公は共通ではないかと思うほどである。

これは単にプレイヤーが主人公を操作するからという理由で起きているものではなく、先述の奇人探偵ミステリと同じ構造であって、コミックスでも見られることだろう。少女漫画の中でも恋愛モノにおいては一つくらいの(時にネガティブな)特徴をもつほかは心優しく前向きで云々な女の子が主人公でありうるだろう。ジャンル名で言えば、夢小説はそもそも主体性を滅する前提であるからよしとして、歴史的には作品の中であっても女性の方がそういった主体の抑圧をされてきたであろうし、ヘテロの恋愛ものにおけるヒロインの没個性ぶりは数多議論されているとおりである。その点GLはちょっとややこしそうなので置いておくとして、同人でも商業でもBLにおいては双方の主体性がしっかり残っていることが多いかもしれない。主体性というと語弊があるかもしれないが、受動的/能動的態度の話ではなく、個として、主体として存在できている人が2人いて、その間で関係性が築かれていくといえるだろう。この点において、主体性を抹消された諸々のコンテンツが性に合わないという女性たちがBLに流れていくのは真っ当とも言えるだろう。

というわけで、御手洗潔があまりにもハルヒすぎたためにこの記事は書かれました。ハルヒ続編待ってます。