公正世界仮説の話
思うところがあったので、公正世界仮説の話をします。
公正世界仮説とは、「世界は公正であるべきだ」、ひいては「世界は公正だ」と考える価値観のこと。
ここでいう公正とは、「悪いことをした人には罰が当たる」とか「努力/善行はいつか報われる」といった、人間の行いに対して相応の結果が返ってくることを指します。
私が思うに、...というか頻繁に議論されているように、公正世界仮説とは「そう思ってなきゃやってられない」といったカテゴリであって、全く真実ではないし、それを他人に/世界に強要することはすごくリスクがあることです。
主に2つの話をします。
公正世界仮説の対偶
公正世界仮説とはたとえば「努力した人は報われる」といった考え方です。
これはうまくいけば努力するモチベーションになりえます。「報われたいから、努力しよう」と。
しかしながらこの命題の対偶をとると、「報われていない人は努力していない」となります。
これは当然危険な考え方です。もちろん努力した人が報われる世界であってほしいけれど、現実はそうではない。
これを報われない人に向かって言うことは時に刺々しい。
たとえば災害や犯罪被害にあった人に向かって、 あなたにも悪い点があった、と言うのがどのような意味を持つか、想像に難くないでしょう。
それは他人にも、自分にもです。
うまくいかないからといって、「自分が頑張っていないからだ」「もっと頑張らなきゃ」と思い続けることは、必ずしも良いことではないはずです。
公正世界仮説は、公正世界誤謬とも呼ばれています。つまりは誤った考えということです。公正ではない世界において人間はこう考えてしまうものだ、というバイアスなのです。
私のスタンスは、公正世界仮説は時に良い理想であるが、現実とは異なるし、世界に押し付けるものではない、というものです。
なぜ誤謬か
公正世界仮説がなぜ誤謬かという点は色々な考え方があると思います。
いわゆる因果応報、記憶のない前世からの言動などを加味してしまえばなんとでも言えてしまうので、様々な立場があるかとは思いますが...
私としては、人生に「左右できない要素」が多すぎると思うんです。
わかりやすい点で言えば、前述した災害や犯罪被害、病気、生まれた国、家庭、などなど。
と言うと、たぶんこういう反論が来るかと思います。
「そのなかでも左右できる要素があるよね」と。
たとえば災害は自分の力で防げないけど、災害対策をしたり、被害の少ない場所に住んだりできるよね。
犯罪被害に遭うのは可哀想だけど、被害を防ぐ努力はできたよね。(個人的に、本当に嫌いな理論!)
病気になったのは可哀想だけど、予防のために努力できたはずでは?
生まれた国が嫌なら、外の世界に出ればいいのに。
などですね。
私はこれには賛成できません。
たとえば病気の話。いわゆる生活習慣病は槍玉に挙げられがちで、「そんな生活をしていたから糖尿病になったんだ」などと言われることがあります。
しかしながら糖尿病(ここでは2型を例にとる)の発症には、生活習慣以外の様々な要素が関わっています。大きいものが遺伝です。
同じ生活をしていたって糖尿病になる人とならない人がいます。その一部は遺伝によって決まっており、遺伝子は努力でどうにもなりません。
それでも、「糖尿病になったのはあなたの行動のせいだ」と言えるでしょうか。糖尿病になった人にだけそれを言って、同じ生活で発症していない人に言わないのはおかしくないでしょうか。
さらに言えば「行動」にすら、還元主義的にみれば努力で左右できない要素があります。
たとえば塩辛いものや甘いもの、脂質たっぷりのものを健康のために我慢できるかどうか。
これには性格が関わっているでしょう。我慢強いかどうか。衝動性が高いかどうか。
では我慢強いとは?衝動性とは?近年の科学では、これらの詳細な仕組みが解明されつつあります。
それぞれについてここで詳しくは述べませんが(いや、述べる知識がありませんが)たとえば衝動性にはドーパミンの制御がかかわっているという見方が有力です。
それでは、生まれつきの脳内の神経伝達物質のバランスのせいで衝動性がおさえられず、甘いものを食べて糖尿病になった。
このことを、果たして「あなたの行動のせいだ」と言えるのでしょうか。
ほかにも、日照時間と抑うつとの関係や、セロトニン欠乏と不安との関係についても同様に解明されつつあります。
こういった目に見えない、ときに自分が知らないだけの要素にあふれた世界の中で、「もっと前向きに」「もっと我慢しなさい」と言えるでしょうか?
ではこの理論は誰にまであてはめてよいのか、とか、還元主義の適用限界はどこにあるのか、とか、深めるべき議論は色々あると思いますが。
一旦ここまで、最近私が公正世界仮説について思っていることでした。
他職種の方と話してわかったこと 医師の言い訳編
前回の続きで、医師の言い訳編です。
言い訳を聞いて誰が得するんだという気がしないでもないですが、一応医師の側もこんなこと考えてるんだな……ということで。
忙しさの解像度
私が学生のころ、医師になった先輩がこんなことを言っていました。
「『医師が忙しいのはわかるが忙しい中でも〇〇を尊重するのが大切』とはよく言うが、あまりにも医師の忙しさの解像度が足りなすぎる。『忙しいのはわかるがそれでも頑張れ』なら誰でも言える。」
まだ医師の忙しさの解像度が分かっていなかった私は、「はへー」としか思いませんでした。
今1年間医師をやってみて、私自身はさほど忙しい訳ではありませんが、上級医の先生方を見て「医師の忙しさ」の解像度は格段に上がりました。
たとえば外科。7時に出勤して、15人分のカルテを確認、その後カンファレンスで発表して、30分間で15人に会いに行く。そのあと2件手術に入って、終わったら16時。とりあえずお昼(?)ごはん食べて、15人分の経過を確認して、15人に会いに行って、自分のカルテを書いて、カンファレンスの準備して、学会発表の準備(自己研鑽)して、勉強のために手術を観返して、、そうこうしてたら21時。明日も7時出勤だから、家にも帰りたくなる。なんなら土日も出勤してるし。
これをやってると、「暇があったらリハ室に行ってみよう」とか、その暇が捻出できないわけです。
だから(前回書いた通り)医師の仕事はどんどん周りから見えなくなるし、連携は難しくなる。
もう誰が悪い訳でもない。でも、どうしようもない……
「忙しいのはわかるけど、〇〇してほしい」
「〇〇してほしいのはわかるけど、忙しい」
どちらも正しいのです。忙しいという言い訳は誰にでもできるし、一方で、「忙しいを言い訳にするな、頑張れ」もまた何も考えずに言えることです。
用事がない、または、用事しかない
今回、医師の仕事について二つのことを考えました。それが、用事がない、または、用事しかない。
診療科にはよりますが、医師がコミュケーションをとる職種の9割が医師で、1割が看護師……と言ったらおそらく過言ですが😅
医師として最初の1年間、なるべく色々な職種の人と喋ろうと思って取り組んできました。
病棟でおしゃべりしたりはするのですが、業務上電話をかけたのは
・看護師さん 多数
・薬剤師さん月に1、2回
・PTさん 年に2回
・栄養士さん 年に1回
これだけ……。これでも多分、平均以上。(ちなみに私に電話をかけてくれたのは、看護師さんと薬剤師さんだけ。さみしいね)
というのも、あんまり用事がないのです。
伝えたいことがあるけど遠慮して電話しなかったことはほぼないです。(気づいたら就業後だったから文面でやり取りしたことはある)
たとえば栄養士さん。ご飯の指示を出して、きちんと作ってくれてる。患者さんもきちんと食べてる。
療法士さんもそうです。リハをオーダーしたら、きっと適切にリハしてくれてるだろうとおもうし、カルテでもそれは確認できる。
特段問題が生じていなければ、電話かけるほどの用事はなかったです。
この点について、医師に電話をかけるのはハードルが高いので、医師の方から積極的にコミュニケーションをとってほしい、と教えていただきました。
たしかに一理ある。一理はあるが、用事はない。残業してまで、お昼ご飯を犠牲にしてまで電話する用事が。もしくは、リハ中の療法士さんを邪魔してまで電話する用事が。
それなら、用事がある方がかけてくれてもいいのに……。だいぶ自然だし、私も他職種から電話ほしかった。(?)
医師だからってレッテルを貼って勝手に諦められるとかなしいものですね。
その裏返しで、医師と誰かのコミュニケーションは「用事しかない」瞬間になりがちです。雑談ってのがあまりない。
療法士さんは時折雑談(をしながら大事な情報を引き出したり、信頼関係を築いたりする)の時間がありますよね。
リハビリの間、必ず20分はその時間が取れます。
しかし医師は患者さんを訪問するとき、必ず聞きたいこと、話したいことがあります。要するに用事がある。
医師は患者さんとも、また他の職種ともこうやって信頼関係を築くべきだなと思うとともに、働き方としてこのような関わり方ができるのは療法士の特権のような気もします。
フィルターがあること
職種の専門性とフィルターというのはどうやっても切り離せません。
例えば、先に述べたような雑談混じりの関わり方をベースとした療法士さんと、用事ベースの医師とでは、周辺情報を積極的に伝えたりコミュニケーションをとったりする閾値が違う可能性があります。
これは私の目指す精神科で気づいたことです。雑談のように見せながら必要な情報を得る精神科では、カンファレンスでも一見不要な情報を話すハードルが低く、他職種との連携も密接です。(因果関係ではなく相関関係かもしれませんが)
多職種が連携すること、すなわちそれぞれの専門性を生かすことは、それぞれのフィルターがあることと裏表です。同じ事象を様々な目線から見られるからこそ連携する意義があるというものですし。
職種間に壁があることと専門性があることは、イコールではないけれど隣り合わせに思えます。
だからこそ、壁(問題点)を探すのはときに容易です。文化の違いがあるということを記述するだけになってしまう。文句なりあるあるなり意見交換なりに留まってしまうんです。
その違いはどこから来るのか。それぞれの文化(専門性)を尊重しながら適切なコミュニケーションをとるにはどうしたらよいのか。果たしてコミュニケーションがスムーズであればよいのか。
多職種連携の先の、何を目指しているのか。
このあたりをもっと考えていかなければいけません。
これは、「多職種連携によって患者さんのためになる医療を目指す」といった漠然とした次元の話ではありません。もっと地に足の着いたレベルで、自分の指す連携とは何なのか、どういったアプローチなのか、それに近づいているのか、といったことを評価する必要があると思います。
まあ、考える必要がある、と言ってるだけで考えるのは今からなので😅
頑張って考えます!😆
長くなってしまいましたが。
色々考えることのできた、有意義な時間でした。
他職種の方と話してわかったこと 多職種連携編
多職種連携やその他沢山のことについて、他職種のかたと意見を交換する機会に恵まれたので、考えたことを書いていきます。今回は多職種連携編!
職業体験したいという話
ずっと思ってたのですが、職業体験がしてみたいんです。
職種によって本当に見ている世界が違います。だからこその多職種連携なのですが。
連携には、ふたつのレイヤーがあると思っています。実務のレイヤーと、協議のレイヤーです。
協議のレイヤーは例えば多職種カンファレンスやチーム医療などです。これについては世界が違ってこそだと思います。様々な視点から意見を交わし合い、サポートし合う。
でも実務のレイヤーについては、相手のことをよく知る必要があるのです。
本当に実務的な話になりますが、たとえばオーダーだけ変更して指示簿を書き忘れると看護師さんがどのくらい困るのか?看護師さんにお願いしたいことがあるが、これはどのくらいの優先順位でやってもらえることなのか?
全然想像がつきません。
逆もまた然り、書いた指示簿が無視されて電話かかってきた時の手間とか、これがないと診療が進まないって事項が忘れられていた時の進退窮まる感じは、看護師さんは知らないかもしれない。
なまじ指示を出す側だからこそ、「これ看護師さんにとってどのくらいの手間なんだろう」「迷惑じゃないかしら」と思うことが多いんですよね。もちろん看護師以外の職種についてもそうです。
研修医になる時に半日ずつぐらい色んな職業を体験できたらいいなあと思うんですが、あんまり現実的ではないですよねえ。
だから実務のレイヤーではヘイトが溜まりやすいわけです。
ヘイトになる前に、フィードバックがほしい
というわけで、ヘイトが溜まってしまう前にお互い分かり合えたらいいなあと思うんです。夢物語かもしれないけど、、
少しずつ溜まっていく不満の背景は決して他職種の軽視ではなくて、ただただ無理解であることも多いのです。
だから、ヘイトになる前にフィードバックがほしい。
というわけで、不満のはひふへほを作りました。
発見
ヒント
フィードバック
ヘイト
ほんまにしばいたろか
です。。
あ、こういうことされると困るんだよなあ、、って事象をまず「発見」する。この抽象化も意外と難しくて、自分でも気づけないまま「あの先生は〜!」って不満が溜まることもありますからね。
その次に「ヒント」。直接文句を言うのがしのびなくても、「こっちのほうがありがたいかな〜……チラッ」くらいで距離を縮めていく。
続いて「フィードバック」。今回の行動のここが良かった、良くなかった、ということをきちんと伝える作業です。ある程度のシステム構築が必要なこともあります。
これをシステムで食い止めておかないと、「ヘイト」になっちゃいます。あの人とはあんまり仕事したくないなあ、となって、雰囲気も悪くなって……
そのままいくと爆発、「ほんまにしばいたろか」になるわけで……
ヘイトになる前に、フィードバックがかけられる環境を互いに作っていかないといけないですね。
医師の仕事って、目に見えない
以前から考えていたこと。医師の仕事って、目に見えない。特に内科。
先程も書いたように、実務のレベルにおいて、他の職種の仕事を知らないことがままあります。
それは周囲から見た医師の仕事もそうです。
医師の仕事のうち患者さんやほかの医療者と関わる部分って、実はあまり多くないです。
そして必ずしもその時間を増やすべきでもないんです。
多職種連携をする上で、先程の「協議のレイヤー」でいえば、医師にできること、医師にしかできないことって「判断」が非常に多い。
診断をつける。病勢を評価する。治療方針を決める。
私の持論ですが、医学部で学ぶことは「正解を見つけるやり方」であって「正解そのもの」ではないわけです。
だから一つ一つの判断に時間がかかる。でもそれって、基本自分か同僚の医師にしか見えないことなんです。
具体例を挙げます。
朝回診に行って患者さんと話をします。この時患者さんに「下痢が続いてて……」と言われたとします。パパっと診察して、5分もかければマシな方。。
そのあと色々考えます。以下、細かいことは伝わらなくていいのですが、私の脳内の実況⬇
下痢かあ。下痢しそうな薬入れてたかなあ。抗生剤は入ってるけど始めてからそこそこ経つし、これのせいなのかどうなのか。抗生剤の下痢ってどのくらいの期間で出るのか調べてみるか。うーんわからん。この薬馴染みないけど、下痢とかするのかしら。薬品情報みるか。一応0.1%で下痢が起きるって書いてるけど、これのせいなのかしら。
で、抗生剤も入れてるしCD毒素の検査をオーダーします。医師は指示簿を書いて、実際に検査してくださるのは別の人。
結果を受けて悩みます。毒素は陰性。抗原は陽性。これは毒素が偽陰性か抗原が偽陽性か。どっちの確率が高いの?調べてみるか。うーんわからん。ほかの先生と相談するかあ……
こんなことやってると本当に何時間もすぎていくんです。
でもこの時忙しくしてるのは私の脳内だけであって、患者さんとは特に関わらない。ほかの医療者からも見えません。
多分この間に、看護師さんからは「CD毒素出すのか出さんのか早く決めてくれ。夜勤帯になっちまうど」とか思われている……😓
というわけで、判断、というか判断のためにかかる労力は目に見えません。
見えない状況で連携をしようとするから、ヘイトが溜まっていったりしちゃうんだろうなあ、と思ったりしました。
私はこれを可視化したほうがいいと思っているのだけど(以前の記事はこちら⬇)
https://kotoba-chz.hatenablog.com/entry/2024/04/29/120809
詳しくはまたの機会に……
というわけで尻切れトンボな感じもしますが、第一弾はここまで。
色々なことを考えるよいきっかけになりました。
認知行動療法アプリを使ってみた
認知行動療法アプリを使ってみました。悩んで悩んで、課金しました。
使ってみた感想や良い点悪い点などをまとめてみます。
試してみたアプリは2つ。PeacefulとAwarefyです。
Peaceful
https://note.com/peaceful_cbt/n/n3ae211adee60
Awarefy
https://www.awarefy.com/
それぞれについて感想を書いてみます。もちろんこの二つ以外にもアプリやいろいろな手段はありますので、ご参考まで。
※機能や料金は2024年11月時点のものです。
Peacefulについて
Peacefulはシンプルな自動思考の修正に特化したアプリです。
何か気持ちが動く出来事があったとき、「出来事」「自然と浮かんだ考え」「感情」「別の考え」を記録することができます。
「別の考え」についてはAIにヒントをもらうことができます。
AIは無料プランでは各項目につき1日1回まで使用できます。有料プランでは無制限に使用可で、自分の考え方の傾向などを分析したアドバイスがもらえます。3日連続で記録したあとは2日間だけ有料プランと同等の機能が解放されます。
Awarefyについて
Awarefyはかなり多機能です。自動思考の修正は「3/5/7コラム法」という機能の一つとして行うことができますが、他にも機能が満載でした。大きく分けると、気持ちの整理や振り返り、瞑想などをする「コーピング」、心理学について学ぶ「学習コース」、AIのファイさんとチャットできる「AIチャット」があります。そのほか1週間ごとにどんな時間にしたいかテーマを決め、毎日のルーティンを定めたりもできます。
両者の比較
1. 使い勝手
全体的な使い勝手は、それぞれ一長一短だと思いました。
具体的には、Peacefulのほうがシンプル、Awarefyのほうが多機能です。
Peacefulは自動思考の修正に特化しており、なにか出来事が起きたときにとりあえずPeacefulを開いて記録する、という対処の仕方がすんなり身につくように思います。難しいことを考えなくてすむので、エネルギーが足りないときにも使えるアプリです。
対してAwarefyは学習コースや瞑想プログラム、認知行動療法ひとつとっても3/5/7コラム法など選択肢が豊富です。気持ちの言語化もAIがサポートしてはくれますが、自分が何で悩んでいるのか考え、どのコーピングが適切か考え...という部分にはエネルギーが必要になるかもしれないです。私の場合は「ネガティブな反芻思考を直したい!」と思って始めたのであまり困りませんでしたが、まだ使いこなせていない機能も多いです....。すでに自分で色々調べたりトライしたりした人には良い機能が揃っています。
2. 機能
それぞれにしかない機能を書いていきます。
Awarefyにしかない機能には上記の色々(学習コース、瞑想、様々なコーピングなど)がありますが、中でも私が気に入っているのが「AIチャット」です。何に悩んでいるわけでなくてもAIの「ファイさん」が相談に乗ってくれます。なんとなくもやもやするとか、とりあえず愚痴を言いたいとか、いいことがあったとか、今日のタスクの整理とか、何でも聞いてくれます。
Peacefulのほうにしかないのは「言い聞かせ」機能です。自分の自動思考(自然に浮かぶ考え)以外のポジティブな考えを「言い聞かせ」に登録して、毎日言い聞かせることができます。自分がすぐに陥ってしまうネガティブ思考と反対の言葉を登録しておくことで、ふとした瞬間にポジティブな考え方を思い出せるのがいいなと思います。
3. 認知行動療法
Peacefulの認知行動療法はAwarefyでいうところの5コラム法にあたるかと思います。
コラム法というのは感情が動いた出来事をいくつかの項目に分けて分析する方法で、
3コラム法では「できごと」「感情」「考え」、
5コラム法ではそれに加えて「他の考え」「他の考えを見つけたあとの感情」、
7コラム法では更に「自然に浮かんだ考えの根拠となる事実」「他の考えの根拠となる事実」を書き出すことができます。
個人的にはこの7コラム法が気に入っています。というのも、「他の考え」はときどき現実感がなくなってしまうからです。
具体的には、例えば自動思考で「自分はだめなやつだ」というのが浮かんできたとします。すると、(特にAIに頼った他の視点では)「こんな出来事があったが、だからといって自分はだめなやつではない」みたいな、「否定形にしただけでは?」という視点になってしまうことがままあります。こうなると言葉の表面をなぞる感じになってしまって、せっかくのポジティブな考え方も自分事として受け取れなくなってしまいます。
それを7コラム法では、自分の視点の根拠、別の視点の根拠まで書き出すことができるので、より納得感を持って受け入れることができます。「自分のネガティブな考えにはあまり根拠がないんだな」と気づくことも多いです。
というわけで、個人的には7コラム法を使っています。
ただ、書き出すだけでも労力を使うので、シンプルに使いたいなら5コラム法や3コラム法、Peacefulの認知行動療法も有効だと思います。
4. AIの性能
明確な比較にするのも本意ではないのですが、どちらも使ってみたところ個人的にはAwarefyのAIのほうが性能がいいのかなあと思いました。
PeacefulのAIがくれる別の視点は、無料版では3.で書いたような「否定形にしただけ」の視点のことが時々ありました。有料版の「ユーザーの性格を学ぶ」機能を使ったとしても、「そう考えられたら困っていないよ~」と思ってしまうような視点が書かれることも多くて。もちろん根拠なくネガティブになっている人には「そんなことないよ」と言うのが大切なのはわかるのですが、凹んでいるときに読むにはちょっと圧が高い時もありました。
あとは、Awarefyのほうが複雑な内容を正確に理解してくれたように思います。登場人物が多かったり状況がややこしかったりと悩みが込み入っていたときに、PeacefulのAIは少し状況を誤解していましたが、AwarefyのAIは正確に状況を読み取り、必要な事項を記憶してくれました。
「AIチャットがオウム返し」という意見も見ましたが、個人的には「傾聴」のスキルなのではと思います。AIは自分の意見は言いませんが、コーチングやカウンセリングでは結局自分で答えにたどり着くことが大切なので。また単にオウム返しするだけでなくきちんと頑張りを褒めたり、おすすめのコーピングを教えてくれたりします。AIに適切にオウム返ししてもらいながら、ヒントを教えてもらうという使い方で正しいように思いました。
まとめると、やはりPeacefulのほうがシンプルに、Awarefyのほうが多機能だけれど複雑に使用するのが合っているのかなという気がします。
5. お値段
重要事項のお値段、結構違います。
Peaceful
無料版では各項目につき1日1回のAIの使用、言い聞かせの登録1つまでができ、3日使えば2日間は有料版機能が解放されます。
有料版は今のところ月額980円、年間プランは半額で5880円/年。AIの回数制限がなくなり、AIが自分の考え方の傾向を記憶してくれます。言い聞かせも10個まで登録可能。
私の場合は反芻思考のモードに入ると何度も何度も気になってしまうので無料版では「回数制限~!」となることがちょくちょくありましたが、1日1回で習慣づけようかな、という人なら問題なく使えるかも。
Awarefy
無料版では、朝晩のコンディションの記録、3コラム法・5コラム法の記録、一部音声ガイドの利用ができます。AIを使わない認知行動療法であれば無料で使えますね。
有料版のベーシックプランは月額1600円、年間プランは9600円/年。学習コースやワークのほか、毎月AIエネルギーが500使用できる仕組みになっています。毎月500というと、AIを使った5コラム法が2日に1回ぐらい使えるイメージなのかなと思います。
有料版のAIパートナープランは月額4480円、年間プランは19000円/年。まとめて払えばベーシックプランと同じくらいなのですが、まとめて払う勇気がでるかどうかというくらいのお値段。AIエネルギーは(システム上の都合で到底達成できない上限が設定されているのみで)実質無制限、AIが自分の状況を覚えてくれたり、コーチングをしてくれたりします。(このブログを書きながらコーチングの機能を初めて知りました)
Peacefulのほうが手が届きやすいのと、個人的には有料版と無料版の違いもそこまでないのかなと思いました。
Peacefulは3日間記録すれば2日間有料版が体験できます。
Awarefyのほうも7日間無料体験や30日間返金保証などのシステムがあるので、有料版を体験してみることができます。
まとめ
以上が使ってみた感想でした。
一点補足するならば、AwarefyはTwitterとかで検索してもPR投稿が多かったので逆に不安だったのですが、使ってみるとそういった怪しさは感じませんでした。
まとめると、シンプル簡単に認知行動療法に挑戦するならPeaceful、能動的に自動思考を変えていきたい人や気に入った機能がある人はAwarefy、といった選び方ができるかなと思いました。いつか認知行動療法アプリを使わなくて良い日が来ることを祈りながら、私はしばらく寄り添ってもらうことにします。
ナンパという行動に反対する声明文
知り合い(男性)と喋っていたら「ナンパはかっこいい、勇気ある行動」と言っていたのでかなりカルチャーショックを受けて……。
そういったものは迷惑行為でしかないという認識だったし、令和6年のいまそういう人が多いと思っていたので、完全にエコーチェンバーの中にいたんだなと反省しここに反対声明を表します。
この世のナンパ肯定派の男女のみなさん、ナンパで出会ったみなさん、すみません。これは反対派の存在が理解できない人への説明、こういう人がいるよという紹介にすぎません。
また、ここではXYヘテロ男性からXXヘテロ女性へのナンパ行為しか掘り下げられないこと、予め詫びておきます。
ナンパの有害性は大きくふたつに分けられる。1つ目は声かけという行為自体の有害性。もう1つは声かけから発生しうる多くのリスクの有害性。
①声かけ自体の有害性
そもそも他人に声をかけられること、特に女性が男性から(主に外見のみで)魅力的だと思われて声をかけられることは、快ではなく不快である。
と私は思う。
快く思う人もいるかもしれないが、(エコーチェンバーだらけの)Twitterをみていても、声をかけられること自体、さらに言えば赤の他人に(女性として)魅力的だと感じられていること自体を不快に思う人が多い。
少なくとも声をかける側の男性というのは、そこまで想像してくれていない。「可愛いと思って声をかけてるのだから、嬉しいのでは!?」と思っている人がいるようだ。オドロキである。
自分が好意を抱いていない異性に好意を向けられたり、外見を(好意的にであっても)ジャッジされる、自分がそういう対象であるという事実は、少なくない女性にとって嬉しくないか、有害だ。
その理由は色々あると思うので詳しくは述べないが、多くの女性には性別を理由に不必要に容姿をジャッジされた経験があり、それも一因でないかと思う。私は(少なくとも容姿を仕事にしていない人に対して)容姿をジャッジすることは、褒めていても貶していても失礼にあたると考えている。
②リスクの有害性
女性が男性に声をかけられるというのは、快不快の問題に留まらない恐怖を伴う。(本当はこの例えにも不満な点はあるのだが、)自分を性的対象としている一回り図体の大きな生物に声をかけられたことを想像していただきたい。「断ったら付き纏われるのでは?」「最悪暴力を振るわれるのでは?」という恐怖が芽生えはしないだろうか。
そして悲しいことに、一定数の女性は人生の中でそういった経験をしたことがあるのだ。道を尋ねられて善意で答えたらナンパだった、断られたら腹いせに怒鳴られたとか。駅で女性だけにぶつかってくるオジサンに狙われたとか。外で遊んでいただけなのに変な人がずっと着いてきたとか。
全ての男性がそうではない。しかし善良な男性を瞬時に見分けることはできないので、初対面の男性はとりあえず警戒しておくことになる。
重ねていえば、ナンパとして声をかけやすいタイプの外見の女性というのは、得てしてそういう経験をしてきている可能性が高まる。
すると、(暴力を振るったりはしないような)ナンパ人間に声をかけられたとしても、そういった可能性が頭をよぎり、不快を超えたリスクを感じる。無下にもできないし、かといって相手をするわけにもいかない。進退窮まるのである。
ちなみに私の知り合いは「男性の友人や知り合いとご飯に行くのとナンパの何が違うんだ」と言ったが、まるきり違う。
・人となりがある程度わかっているか
・ご飯に行く目的
・問題が起きた時のリスク
などが全く違う。
そしてもし、知り合いと言いながら人となりが分からなかったり、評判が悪かったり、明らかに外見を異性としてジャッジされてご飯に誘われた場合はどうか。権力勾配などにより、問題が起きた時のリスクが高い場合はどうか。
そんなのはナンパ人間と同じである。ご飯行くわけないだろ、そんなやつ。
というわけで、私がナンパ、否「不審な声かけ」に断固反対なのは上記二つに由来する。そして先述の男性の知り合いがナンパをかっこいいと思っているのも、このふたつの非対称性に由来する。
つまり、多くのナンパ人間は「声をかけている=魅力的に思っているのだから良いだろう」と考えているが、それ自体が不快なのである。
そして多くのナンパ人間は「声をかけたくらいでそんなに不快なのか」と疑問に思うが、声をかけられる側からすればその人が「声をかけるだけ」の無害人間なのかどうか判別できず、一様に警戒する必要があるのだ。
以上が私のアンサーであり反対声明であり、ナンパを「不審な声かけ」に改名せよという提言である。(一同拍手)
駆け出し研修医の脳内〜医師はなぜ何も答えてくれないのか〜
※本記事の登場人物は全て架空です。
ある日、病室にて
「先生、黒酢のサプリ飲んでもいい?」
私は答えます。
「うーん、サプリはお薬と干渉してしまうこともあるので、本当は控えていただく方がいいんですけどねえ……」
嗚呼、味気ない会話。いいじゃないの黒酢ぐらい。きっとそれが好きなのよ。
でも、しがない研修医には、「いいですよ」と言う勇気がありませんでした。
この時、私の脳内がどうなっているかの解説をします。
まずサプリというととにかく色んな成分が入っている。
病院で何種類のお薬を出すだけでも併用禁忌(一緒に飲むと相互作用で悪影響が出る薬の組み合わせ)を調べてヘトヘトなのに。
サプリとなると何がどれだけ入っているかも分からない。
(しかも、紅麹の例のように、思いもよらない影響が出ることもある。。)
自信を持って「はい、いいですよ!」と、どうしても言えないのだ。
本当は、多分高確率で飲んでもよいのだ。黒酢が好きなら飲めばいい。特に影響は出ないと思う。たぶん。
正直、何か飲んでいるなあと察したとしても、「飲んでますよね!?やめてください!!」と言うほどでもないかもしれない。
だけどやっぱり、何かが起きる可能性は100パーセントではない。
黒酢の中の謎の成分が今の薬と干渉したらどうしよう?とか
黒酢を飲み始めたあと、なぞの肝酵素上昇があったらどうしよう?今日始めた薬の肝障害と見分けがつかなくなるかな?とか
色んなことが頭を駆け巡って、結局、「うーん、やめときましょ」と言ってしまう。
楽をしているだけかもしれない。でも、「飲みましょ!」と言えない。
これはサプリに限らず、何を聞かれても同じである。
「運動した方がいいですかね?」「野菜食べた方がいいですか?」「ストレスのせいでしょうか?」
……どれも教科書には載っていないよ😭
研修医は答える。
「うーん、今回のことと直接関係あるかは何とも言えないですが、まあ、ストレスは減らした方がいいんじゃないでしょうか」
※以上は、単なる1例です。
本当に黒酢と併用禁忌の薬もあるかもしれないので、医師に相談してください。
(保身)
ちなみに救急外来という場所においては、この現象は顕著だ。
救急外来は人手も足りないし検査も足りない。専門外の疾患について、眠い目を擦りながらなんとか判断を下す。
救急外来というのは診断をつける場所ではない。次に病院が開く時まで生きていられるかを判断する場所だ。
だから救急外来で何を聞いても「はい/いいえ」で答えてはもらえない。
「この骨は折れてますかね?」
「うーん、救急外来で見つかるような大きなものはないですが、小さな骨折が隠れているかもしれません」
曖昧である。
「なんでこんなにお腹が壊れたんですかね?」
「うーん、ここではなんともいえません。」
「腸炎ですかね?」
「腸炎の可能性もありますが、腸炎ではない可能性もあります」
情報量ゼロである。でもそれしか言えない。
ではなんでこんな事になってしまうのかというと、私個人的には「嘘をつくわけにいかない」からだ。
「健康」が身近すぎるために、世の中には玉石混交の情報が溢れている。
「論文」や「〇〇大学の研究室」と銘打っていても怪しげなものはあるし、「研究」が「エビデンス」になるまでの労力は途方もないものだ。
更に、より現実的な話をするならば、適当な返事をして健康被害を出すわけにはいかない。何かが起きた時、自分が飲んだ黒酢だからと納得してくれる人ばかりではないからだ。悔しいけれどリスクをとらない返事を選んでしまう。
人によってはもっとたくさんの理由があると思う。寧ろ、「〇〇は100パーセント効果がある!」「〇〇は絶対に危険!」などと言い切る人を訝しく思う医療者も多いだろう。
この悲しいすれ違いを防ぐ方法は、私にはまだ思いつかない。
医療者としては、患者さんが求めているものはエビデンスではないということを知っておくべきだし(ただし、人による)
「医師の返事はいつも曖昧だ」「何を聞いても禁止と言われる」と思う人がいるなら、医療に100パーセントはないことを知ってもらえるととても嬉しい。
もしかすると経験を積めば、私にもいい塩梅の返事ができるようになる……かもしれない。
そうやってエビデンスと生活の間を埋めていくのが臨床なのだろうな、と思った。
左脳に浮かんだ言語の記録
皆さん、なにで考えてます?私は言語です。
↑こちらから始まる一連の動画を見ました。本当は本を読んでから書きたかったけど、それまで我慢できなかったのでブログ書いちゃいます。
ビジュアルシンカー(視覚思考者)という、物事を図や絵で捉えて考えるやり方について、言語思考の極まったお2人が考察する動画。
を、言語思考の極まった私が見ましたというブログ。😂
ビジュアルシンカーという概念はもしかしたら科学的にはかなり危ういものかもしれないが、しかし動画のコメントを見ても視覚思考と呼んで差し支えない経験をしてきた人が沢山いるわけなので、ここでは存在するものとして扱ってみる。
私はゴリゴリ言語思考で、頭蓋骨の中に左脳と左脳が詰まっていると自称している。以下、色々誇張はあるが、極論としても面白い発見ばかりであった。
私の強みは、言語化ですか?
ずっと自分自身のことを言語化が得意だと思っていた。
が、よくよく考えたらこれはそこまで正しくない。
私は初めから言語で考えているのであって、考えを言語化するというプロセスは存在しないのだ。
頭の中の言語をアウトプットすることは別に言語化ではない。今だって、「頭の中の言語を……」と考えたことをそのままフリック入力しているだけ。言語を載せる媒体が変わっただけであって、言語「化」ではないのだ。ハードカバーを文庫にして売ることを言語化と呼ぶ人はいない。
だから私は、「本当に賢い人は難しいことを分かりやすく説明できる人だ」という風潮にもずっとピンと来ていない。
この話題は動画内でもお二人が取り上げていた。お二人の議論としては「言語化できる人が賢いという風潮があるが、言語化できる人が優遇される社会に生まれ落ちただけ」という話であり、これはこれで私は賛同する。
が、私の感想はちょっと違っていて、多分私にはそもそも「言語化できる人=賢い」自体が全くピンと来ない。言語化できる人が優遇されている社会構造なのはわかるのだが、言語化はそもそも賢さの定義とは程遠いと思う。
なぜなら、こういう時の言語化とはパラフレーズでしかないからだ。
私にとって(あえてひろく言えば言語思考者にとって)、物事を理解するとは常にパラフレーズである。
(特に視覚的、空間的な)イメージを広げたり、自分事のように体験したりする機能があまり備わっていないのであり、本を読んでもいつも字面をなぞっている気がしてしまう。
これは正しそうだとか快不快とかの直感はあっても、「理解」自体はあくまで言葉の置き換えでしかないのである。
だからそもそもレベルの高い内容を思考できることそのものが賢さであって、咀嚼、すなわちパラフレーズの上手さは便利機能でしかないと思う。
これは絵で例えるならば、私が模写しかできないこと、そしてそれを自分であまり評価していないことにも似ている。
私は時々絵を描くのだけど、基本的に模写ばかりである。ゼロから描こうとしてもできない。人の描いたものを少しデフォルメすることはできても、自分だけで絵を創造することはかなり難しい。
けれど、(だからこそ?)私ができるような範囲の模写自体にはあまり価値を感じていない(上手い人は普通にすごいと思う)。私は右から左に描き移しているだけ。創造できる人の方がずっと凄い。
物事の理解も全くおなじである。相手のレベルに応じてパラフレーズができる人は素晴らしいスキルを身につけたものだとは思うけれども、賢さとはまた違う。案外、社会で優遇されているのは言語化能力ではなく、このパラフレーズ力であるかもしれない。
世界は本当に言語でできているか
次に、「物事」なるものが本当に言語でできているのか考えたい。
確かに学問やコミュニケーションについては言語優位な社会になっている。
しかしながら、私たちが生きる世界自体、体験自体は視覚だけではない感覚がほとんどであって、言語などという抽象概念でできているわけではない。
私自身には、その曖昧な感覚世界から特別な部分を切り取って「言語」で表すことで生きているという実感が切に感じられる。
例えば、街は言語でできていない。その街を歩いて、五感を使って、なにか感じるーー正確には、感じていると考えている。私は世界を言語で受け止めて、言語で認識している。特に、世界の特別な部分を。それがしんどい時は常にYouTubeなりpodcastなりを流して言語情報をインプットしているほどである。
だから私にとって、外界は言語でできていないし、私の中身はそれを切り取ったことによる言語でしかできていない。
だから、私が好きな人はその言葉が好きな人だ。
最近ハマったアイドルは、その言葉の端々にうつる生き方が好きで推している。
今度会う友達は、考えている内容がいつもとても興味深く、またそれをアウトプットする言葉の選び方が好きだ。
好きな作家さんも然り。作詞家さん然り。
あぁ、この世界からこの人はそこを切り取って生きてるんだ、というところに惚れるというわけだ。
言語脳の欠点
もちろん言語脳(の比重が高い私の性格)の特性がポジティブに映らない時もあるだろう。
例えば私は、言葉が正確であればあるほど素晴らしく、内容が相手に伝わる蓋然性が高いほど良いと思っている。
だからこんな、冗長で、分かりにくくて、かっこつけたブログになるのである。
また正直な話、プレゼンテーションのスライドなんかも全部文字の方がありがたい。図や絵にすると私にとっては完全に情報量が減少する。恩恵は特にない。単純に減る。ただ、世の中そんな人ばかりではないから、自分がスライドを作る時はちゃんと図を入れている。
人と喧嘩する時もそう。これまでの流れから自分の気持ちまで言葉にして伝えてしまう。
別に思ったことを全部言うということではなく、割と考えすぎて喋れなくなる性質である。ただ、言おうと決めた後は別にハードルはなく、考えていることすなわち言葉がそのまま吐き出される。人と議論をしていて「なんかモヤモヤするんだけど上手く言葉にできない」と言われた時まったく意味不明だったことがある。私にとってはモヤモヤすることとそれが言葉になることは同義であり同時であったからだ。でも今なら少しわかる。その人は、言語で考え感じる人ではなかったのかもしれない。
右脳思考ブーム
言語を左脳、アートを右脳にここでは安易に押し込めるとすると、最近は右脳思考ブームが来ている気がする。
アート思考、デザイン思考とかも流行っているし、私もグラレコ講座をいくつかとってみた。
私自身がかなり左脳偏重な自覚があるので、例えば読書記録などを苦しいながらもグラレコで残しておくのはかなり有用だ。自分の思考パターンの足りない部分をかなり補ってくれている感覚がある。ただし、やればやるほどに向いてないなあとつくづく感じる。
一方、カウンセリングやコーチングといった割とケアに近い部分では、まだ言語偏重な部分が多いのではと思う。コンサル?コーチング?とかでも、気持ちなり現状なりを本人に言語化させることに偏っているときがある。言語化する、ということが単純に不快な人もいるのかもな。
そんなわけでこのブログも、完全に思考スピードと同じで書かれました。寧ろタイピング速度が律速段階。
居心地のリスク
最後に、社会(世界ではなく)が言語思考者向けにできているという話題について。
私は幸い、今すごく良い環境に置いてもらっている。気の置けない友人みたいな同期たち。教育熱心な先生方。大学と比べるとかなり規模は大きいが、それでも自分と同質な人々の中に身を置いている自覚がある。
これは一定の人にとってあるあるではないかと思う。進学の構造として小学校より中学校、中学校より高校という風に自分に合うレベルに行けるようになっていて、最終的に似通った層の中で過ごすことになりがちだ。
それはつまり、自分がマジョリティになりつつあるということだ。
動画内で堀元さんが「文化祭に馴染めなかった自分の原体験を忘れたくない」と仰っていたが、全くその通りのリスクを自分も感じている。(何を隠そう、私も文化祭を、もとい体育祭を冷笑していたからである)
私の居心地が良くて、私がマジョリティになって。時には、マイノリティであることを受け流すスキルさえ利用して。
そんな流れのなかで、体育祭の最中に教室でゲームしていた私の気持ちはどんどん小さくなってしまう。私が快適な時間を過ごす代わりに。それは大きなリスクだ。
マジョリティであることはもちろん悪ではないし、気づくのも難しい。そこから抜け出したいわけではなく、ただ心のどこかで、体育祭をエンジョイしなかった私の面影を愛でていたいと思う。