「現場の人」になっちゃった

今日、「現場の人」になりました。

 

 

端的に言えば、「反現場至上主義」だった。

 

「お医者さんじゃない人」じゃなくなりたくない、という気持ちは以下の記事でも触れてみた通りだ。

kotoba-chz.hatenablog.com

現場に近づけば近づくほどに、「医師」(になろうとする者)であるというだけで尊敬されたり、敬遠されたり、ジャッジされたりする居心地の悪さを感じてきた。「良くも悪くも」ではない。私にとっては完全に悪かった。

 

これに昔からの「反現場至上主義」が合併して、私は完全にこじらせていた。

遡ること10年前、私は作文コンクールで銀賞を取った。金賞の人はかなり大変な生活を送っていて、その半生を作文にしていた。

今思えば着目すべき点は全然違うのだけれど、当時の私には変な反骨精神が芽生えてしまった。このへんの心の動きはいずれ詳述したい日が来たらにするが、簡単に言えば「現場」にいるということの権力性が怖かった。このあたりは、コロナ禍で経験と思い出の絶対量を削がれてきた人にはちょっと分かってもらえるかもしれない。あるいは、「絶対留学行ったほうがいいよ、人生変わるよ、これは行ってみないと分からないよ」というアドバイスに対する得も言われぬもどかしさにも似ている。

とにかくあれが私の反現場至上主義の始まりだった。それは「現場にいない人の視点も尊重するほうがよい」くらいのものから、「現場に出て具体的な話しかできない人になりたくない」というところまでこじれた。

そして私のキャリアにおけるその「現場」は、初期研修という表札が掲げられ医師免許というパスが必要になる、あまりに輪郭のはっきりした場所だった。

 

たとえば国試の勉強一つとっても、「国試が現場重視になっている」とわざわざ言われるくらいには、本来の国試と現場の距離は遠い。「国試的に重要」は「臨床的に重要」の対義語である。それを今日、実感してしまった。

今日は初出勤で色々な話を聞いたのだが、そこで一つだけ、国試で聞いた具体的な疾患名が出てきた。

国試の勉強のときは「なぜこんな病気を出題するんだ」と思ったりした疾患だったのだが、実際の文脈の上で聞くと、それが"現場においては"重要であることがすぐにピンときた。

いま私は線を超えたんだ。そう思った。安楽椅子探偵のマイクロフトは、気づけば現場のシャーロックになっていた。

労働者/医療者としての自覚とか、そういうものは正直まだない。けれど、足並みを揃えて全うに歩んできた私は、怯えていた場所に今いる。

私は順調にパスを手に入れて、今日、「現場の人」になってしまった。

宗教を作ろう② メッセージを考えよう

前の記事から1年経ってしまった。


「場」の力

メタ、というのを1つ芯にした宗教になる予定だが、具体的にどういったメッセージ性を持つのがいいだろうか。
メタに関連して、「場」という言葉の力について最近考えている。「雰囲気」でも「状況」でも「環境」でもなく、placeでもfieldでもなく、「場」。有限の広さのことを指しながら、全くもって抽象的である。
私が6年間、社会学のほんの上澄みだけを啜って学んだことの一つが「関係性」であり、「場」はそれを表すのに至極適当だ。
私たちは「個体」として存在していると思っているが、本当は数多の連関の中にいる。関係性と関係性の間で私の輪郭が形成される。自他の境界は時に不安定であって、揺らめきながら、それでも私は存在する。誰も私たちから関係性を奪うことはできない。
そんなネットワークの糸のカタマリが、「場」。(これは私が今定義した。正確なことはわかりません)
場、というのは基本的には認知可能で定義不可能な、絡まりあった糸の一定の範囲のことを指す。無限に広がる糸を無理やり切り取る、人間のための行為である。
本当の私ってなんなんだ、なんていう無限の問いから脱して、この「場」のなかで私はなんなのか、考える時代が来たのではないだろうか。
「場」に居を構えるからこそ、そこから浮いた「私」を捕える準備ができるのではないか。

 

「場」はどういうメッセージになるか

なんかこういう、何言ってるのか正直分からない学者みたいなこと、言ってみたかったんだよね~!

でも実際、最近は自分を掘り下げるムーブメントーー内省ーーが大きくて、関係性に焦点を当てた考え方のフレームワークーー言うなれば外省ーーはあまり観測できない。自分も他者も変化していく中で、ナイスアイデアかも。

例えば……既存のフレームワークには、自分自身を俯瞰するものが多い。
環境や自分や他人は常に変わっていく。時には急激に。けれど、時間軸の上を脈々と続く自分だけをメタ的に見ているからこそ、現実や過去とのギャップに苦しんだり、変化するのが怖くなったりする。
「今ここ」の「関係性」の中の自分、という視点をプラスする必要があるのではないか。

という感じ。
方向性が定まってきましたね。

レインコード ネタバレ有!プレイ後感想

レインコード プレイ後感想です!(ネタバレあり)

 

結論:面白かった!結構長いこと迷って今更買ったけど、期待を裏切らない面白さでした。

めちゃめちゃネタバレしているので、買ってない人はブラウザバック推奨!
ダンガンロンパのことも結構書いてるから、ダンガンロンパやってない人もブラウザバック推奨!


<個人的に気になったところ>

色々書いてしまったけど、全体的にクオリティが高く、面白かったからこそ細かいアラが目立つというような感じ。ゲームとしては大好きです!

1. テンポ感
ストーリー全体はスンっと終わってしまった感じがあった割に、一つ一つの話が長かったり、QTEが下手すぎたり(私が)して、テンポ感が速いのか遅いのか分からなかった……。
あとは謎迷宮の中のひたすら歩いている部分が長すぎて……。スキップもできないし結構辛かった。
ダンガンロンパに比べるとそれぞれのストーリーが重たくて、話数が少ないのかな?
個人的には、最後にみんなで協力するとか、もうちょっと超能力を活かして欲しかったかも。最終章は全然能力使ってないし、ストーリー上仕方ないけどひとりで戦っちゃったし……。

2. ストーリー
ダンガンロンパ然り、ミステリ然り、個人的に犯行動機というものを楽しみにしているのだが、今回は死神ちゃんの特性上どうしても犯行動機を深堀りしにくく、入り込める部分が少なかった。たとえ真宮寺氏くらいぶっ飛んでても、本人が深く思っているなら私は好きなんだけど。
たとえば第3章。事件の規模が大きいし、第2の居場所になるところだったシャチさんを亡くした悲しみも大きい割に犯行動機がシンプルなのはみんな感じていたかと。これも、たとえば何にそんなにお金が必要だったのか?カナイ区を出て何をしたかったのか?といった動機の大きさがともに描かれていれば、少しはアンバランスが解消されたのかなあ。
ゲーム全体のストーリーとしても、ヨミーへの憎しみとか、くるみちゃんへの親しみとか、そういうものが極まる前にどんどん話が進んでしまったなという印象でした。セスとか、もっと掘りがいがあるでしょ!?
ただ、一つ一つの話は既に十分重たいので、どうしたものか……。

関連して、もちろんそれが見たいならダンガンロンパを遊べばいいんだろうけど、おしおきシーンのインパクトも弱かった。
というのも単にグロが見たいということではなく、ダンガンロンパのおしおきで各キャラをとことん愛して、1番辛い目に合わせることでその人の人生を際立たせる演出が大好きだったのよね。
今回は、犯人は訳が分からないままとりあえず死んでしまうというだけなので、その辺り掘り下げて欲しかったなと……。謎迷宮の中で犯人の自白を聞けたら嬉しかったな。
ファイナル推理で謎の全容はしつこいぐらい解明する割に、犯人の気持ちは断片的な情報しか得られないので……。

3. ゲームシステム
セーブできない場面が多かったので、もう少しちょこちょこセーブさせて欲しかった。製作者的にはどういう遊び方を想定してたんだろう?1章ずつぶっ続けでやる想定にしては章が長くて話数が少ないし、途中でセーブする想定ならセーブできない箇所をあまり作らないで欲しかったかも。
あとはサブクエと「語らい」の収集結構楽しかったのだけど、気づいた時には手に入れられなくなってて……。
割と収集要素は集めるほうだけど、全部遊び終わったのにわざわざ回収しに行くほどでもないし。せめて各章に1つとかにして、回収し終わってから謎迷宮に進めるとか、分かりやすくしてあれば回収したのにな。

 

<各章の感想>

まず、全章を通して「意外な犯人」「意外なトリック」が網羅されていて、遊びがいがあった!

第0章
度肝抜かれた!なんか正直、最終章とかよりびっくりした。さすがスパイク・チュンソフトと思ったし。
あんなに愛すべきキャラを出しておいて、サヨナラなんて……。
主人公はもしかして今まで会ったキャラの能力をコピーして使えたりするのでは!?それを使って事件を解決するんだ!?と推理したけど、違いました。残念。

第1章
上でも書いた通り、犯人にせよ便乗犯にせよ動機が知りたかった。犯人を絞り込むロジックも、どうなの?と思う部分はあったものの、まあ騒ぐほどの矛盾でもないか。
裁判で周囲を説得するのではなく飽くまで「既に存在する真実にたどり着く」、ダンガンロンパでいうならモノクマと答え合わせする部分だけがゴールなので、やっぱりアッサリしちゃうよな。

第2章
とても面白かった。私は結構何周でもして、見られるものは全部見るタイプなので、3人になりきって捜査するのはかなり楽しめた。

第3章
上記の通り、動機が少し弱いかなあ……。シャチさんの死亡フラグを感じながら愛着を持ってしまったからこそ、動機とのアンバランスさに悲しくなってしまった。事件の規模と動機が見合ってないと、犯人がただのイカれた奴になってしまうのでは。。あと、水にトラウマがある人と泳ぎの天才が犯人候補にいたら、あからさま過ぎるでしょ。

第4章
結局、、博士の芝居はなんだったの!?!?それが気になって夜も昼も寝てしまうよ。。
結構途中から犯人を推理できた人が多いようだけど、私は全然分からなかった(犯人がオキニだったので)から、ショックがデカかった……。
でも電流何回もくらってまで成し遂げるところ……そういうとこがオキニなのよ……😭😭😭


第5章
よく考えれば推理できたのかもしれないけど、フツウのユーザーとして考えつつプレイしつつだったので、程よい驚きがあって良かった!
みんな言ってる事だけど、ダンガンロンパシリーズに触れてきたからこそ騙されてしまうあのトリック……小憎いね〜!😆そこに関しては無理矢理感とかどうでもいいわ!プレイヤーへのサービスだと思ってる!
ストーリー性もよかった。主人公自身(と死神ちゃん)にはさすがに感情移入できていたから、最後は大感動でした🥹💦

 

 

という感じで、色々文句も言ってしまったけど本当に楽しんでプレイしました。続編が出たら絶対買うと思う!
でも、続編が出た時には死神ちゃんは初めからデレデレなのかな……?それはそれで可愛いな。
あと、ハララさんの性別が結局どっちなのかによって出る同人誌の種類が結構変わると思うんだけど、明かされないんでしょうかね。笑

先日の勉強会の感想②

リハビリテーションについての勉強会に参加してきました。

以前から「医療」について考えてきたことをリハビリテーションで実践されているご様子をお聞きし、とても勇気をいただきました。
折角なので、この機会に改めて言葉にしておきます。
非常に曖昧な定義で「ケア」という言葉を乱用しているから、その界隈の人に怒られちゃいそうだな。


「やりたい」を叶えること


病院で「◯◯がしたい」と発したとき、「できない理由」を述べられることの多さは容易に想像がつく。
規則だから。他の人も我慢しているから。こういう病気だから。あなたはこういう状態だから。エトセトラ、エトセトラ。
こういうとき、「できる」という結論を一つでも含んだ検討をすること、少なくとも「できるようにしたい」という気持ちをもって検討をすることの温かさを、今回の勉強会で感じた。
今回のお話では、患者さんの希望を叶えるために、どのような外出形態が可能かいくつかの選択肢を提示し検討しておられた。
この姿勢にたどり着かないことが、病院ではあまりにも多いと思う。きっと、断る言葉ばかりが上手くなっていく。
それを、どんなに条件(お金にしろ、時間にしろ、質にしろ)がついても「できる、叶える」の方向性で検討してもらえること自体、救いになることもあるだろう。


例えば、注射の治療を受けたくない人がいたとき(何を隠そう私自身である。そう、痛いからである)。医学的に注射薬のほうが効果があるとき、大体の場合「これが一番いい治療ですよ」「注射打たないと治りませんよ」と説得するところから話が始まる。
国試の必修問題的には「どうして注射を打ちたくないのですか」と尋ねることになるが、結局これは理由を聞き出して説得しようという魂胆に基づいたカギカッコ付きの「傾聴」であって、寄り添いではない。
ここに、「注射以外の治療は~~~で、その場合お値段は安いですが効果はこのくらい低いです」とか、「注射以外にできることはなくて、その場合こんなデメリットがありますよ」とか、とりあえず「注射しない」という選択肢を含めた説明をしてもらえること自体により、「自分の気持ちは分かってもらえた」という気持ちと信頼が生まれる(と思う)。
そのうえ、今回のお話のように「できる」を段階に分け、実現させてもらえたなら、医療の醍醐味としてこれ以上のものはないだろうな。

 

「医療」の範囲、「リハビリテーション」の範囲


医療、こと診断〜治療のプロセスにはガイドラインや原則があることも多いけれど、それでもその実践には揺らぎがあるし、医療者や患者の経験にも幅がある。
所謂「医者ガチャ」「療法士ガチャ」みたいに、正直誰に当たるかで予後なり生活なりが変わってしまうこともある。
なるべく日本のどこであっても均質な医療が届けられればいいのだろうけど、地域や運やなんやらかんやらによって格差は生まれてしまう。
この「個人/病院による差」の部分を、医療は何処まで減らそうとするべきなのか、
もっと言えば、どこまで底上げしていくことが「医療」の範囲に含まれるのか、だいぶ曖昧なままだ。
極論「ケア」と「キュア」を完全に分離して、分業していく道もあるだろう。
私自身はケアに寄って医療に携わっていきたいと思うけれど、それが医療のスタンダードであるべきか、医師全員の仕事であるべきか、正直よくわからない。

例えば、医療以外でも経験のバラつきはある。デパコスのBAさんの対応とか、Twitterでいつも話題になってる気がする。
そういうものと比較しながら、医療におけるケアの割合をどのくらいで想定するのか、されているのか、定義上ケアは強制できるのか……色々考えたいことがある。

……と、こんなことを考えながら過ごしてきたので、実際に「リハビリテーション」の定義を広げながら患者さんの支援を第一とした実践が行えるのだというお話は、いつか未来の私にとって勇気になるのではと思った。

 

人生を支えることを、なんと呼ぶか


私が医療についてその定義を探っているように、今回は、リハビリテーションが単なる機能回復訓練に留まらず患者さんの人生を支援していくことだというお話を伺えた。
リハビリテーションのためにリハビリテーションをしているのではなく、患者さんらしい人生を送るためにリハビリテーションなり診療なりをしているわけだから、それこそが医療というものの根本であると思う。
さて、本題とはズレてしまうかもしれないが、果たしてこの支援をなんと呼ぶべきかも面白い話だ。
患者さんの希望によって関わる職種は変わってくる。もっと広く(時に浅く?)多職種が関わったら、より持続可能になったりしないかな。
そうなると、人生を支えることそのものをやっぱり、「医療」と呼んでも差し支えないのかな、と思ったり。

 


コメディカル」という言葉


医師の指示がないとできないことが存在するのは、なんかもう仕方ないという気がしてきた。法律だし。総合的に見るというのは、誰かがやらなきゃいけないことだし。
それをどうして、縦ではなく横割と認識できないのかなあ。
私の実感としては、6年間「実践」より「判断」を学んできた。実践は多分この4月からになると思う。だから「判断」が医師の仕事であるのは致し方ない。そういうものであろう。
飽くまで権力勾配の発生しない判断と実践の分業としか思えないし、私の微々たるポリクリ経験からはそうにしか見えていないのだけれど、色々な人に鳴らしていただく警鐘によれば現実はそうでもないらしい。
私自身、例えば無自覚ホモソ男性や無自覚都会民たちにしばしば憤っているわけだけれど、その逆が既に自分に起きているならすごく、すごく嫌だなあと思う。
これから誰もフィードバックしてくれなかったら?無自覚権力医師と諦められ続けて、対話の機会が失われてしまったら?
誰のためにもならないし、すごく寂しいなあ。(記事を見返したら、1年前も同じことを言っていた。)
とりあえず、「コメディカル」という医師だけが含まれない言葉があるのはおかしいので、何とかしたい。

日本語の好きなところ2

皆さん、日本語使ってますか。
日本語の好きなところ第2弾です。
何故か先日「てにをは」について考える機会があって。私は大好きです、てにをは。

 

日本語は膠着語(助詞などの形態素を用いて文中における単語の役割を示す言語)なんですが、私、結構いいと思うんです。
まあ実際助詞使ってないことも多いけど。
日本語の助詞って組み合わせることもできるし、表現のバリエーションをかなり広げてくれます。
副詞や形容詞で補うのとはまた違う、辞書ではわからないニュアンスというか、あくまで経験則から来る機微みたいなものが、助詞から出てます。私には見えます。。

 

ほら、今だって私「には」って、「に」と「は」をくっつけてる。
でもこれって、母語話者のレベルでは辞書を引いて調べるような違いではないわけです。
「に」とも「は」とも違うし、みんな使えて読み取れるけど、辞書を引くと多分余計にわからない。
これが副詞onlyとかで仮に補われたとしたら、それは意味になってしまう。
意味じゃなくて機微のレイヤーで自分を表現できるって、それがなかなか説明できないって、これぞ言語の醍醐味と思いませんか。

 

「日本語はアンニュイ」って、ラーメンズのコントで言ってたな。
省エネなとこも、いいですよね。

先日の勉強会の感想

勉強会に参加してきたので、その感想を。
リハビリテーションについて、くも膜下出血を経験した当事者の方のお話を聞けるというものでした。
その場でどういう話があったかというよりは、私が考えたこと、考えるべきと思ったことをメインに書いていきます。

 

 

フィードバックと教育の機会


治療や診断ではなく関わり方の面においてフィードバックを受ける機会が無い、という話題が出た。
確かに私も実習で患者さんとお会いする機会は何度かあって、(声をかけやすい患者さんには、だけど)自分の態度で不適切なところがなかったか、改善するポイントはないかお聞きしていたのだけど、優しい方たちだったからいつも「何もありません、素敵なお医者さんになってね」と言ってもらっていた。
私は自分の不用意な発言をありえないぐらい引きずるほうだし、そう言って貰えたこと自体は嬉しかったけれど、そんなわけで実習を通じて私のコミュニケーションは改善しなかった。
OSCEの練習も同様。模擬患者さんや同級生にフィードバックを貰う機会は数回あったけれど、「笑顔がいいですね」とか「もう少しハキハキ喋るといいですね」とか表面をなぞる様なことばかり。私もみんなへのフィードバックを無理やり捻り出した記憶がある。
医学を飛び出してみても叱られるうちが花とか言うように、人はだんだん他人からフィードバックされなくなっていく。
ここからだいぶ主観の話になってくるが、、
以前、先生に勧められてクィント・ステューダー『エクセレント・ホスピタル』という本を読んだ。病院では適切なフィードバックをしよう、互いに褒め合い空気をよくしよう、みたいな内容で、とてもいい本だった。
が、医師をはじめ医療者のあいだには、こういう正攻法のビジネス書のマトモな言い分のことを、「なんかしゃらくさい」と思う風潮がある気がする。(うちの大学がそういう人の集まりという面もある)
「うーん、まあ、世間的にはそういう方法もあるでしょうねえ?」みたいに、ずっと斜に構え続けているというか…。
医療の外でも年齢や権力のためにフィードバックはされにくくなり、それを打破する方法論もたくさん考案されてきたはずなのに、医療の世界では真っ当に向き合われていないように思う。
一人一人の心がけを超えて医療者全体の意識を底上げしていくためには、ずっと精神論でいてはいけない。入試における面接や少しずつ増えてきた倫理の授業が具体的な前進の一環であろうし、勿論まだまだ足りていない。
長くなってしまったが、医療の世界にある謎のバリアをどうやって“ひろく”破壊できるのか、これから考えてみたい。

 

「患者さんの意思」の暴力

私はかねてより意思決定の分野に興味があって勉強しているのだが、強い言葉を使うなら、「患者さんの意思」を尊重するという大義名分のもとで、それが暴力に変わりつつあると思っている。自律しているんだから自分で決めてくださいね、自分で決めたことだから受け入れなさいね、という感じ。
行岡哲男『医療とは何か』だったと思うのだが、病気の1要素に「理不尽さ」があると述べられており、私は結構納得している。
病気になって、病院に行って、そもそもが理不尽な状態であるのに、その中で最善を尽くして選んだことの結果にまで全責任を負う必要性があるのだろうか、と疑問に思われる。
患者さんがこれからの人生を少しでも上向きに歩んでいける助けができればいいのに、患者さんの生活のことを医療者が決めたり、医学のことを患者さんが決めたり、色んな倒錯が悲しい結果を生むことがあるのではないかな。

 

人対人として


患者さんどうしを比較するのではなく人対人として関係を築く、という話が出た。今までちゃんと言葉にしたことがなかったので、心に響いたことの一つだ。
よく聞く話として、たしかに患者さんにとっては人生の大きな割合を占めることもある「疾患」だが、医療者にとってはn分の1である。
だが、心を尽くして患者さんを診ている先生方でも、数多くの患者さんを、(言い方悪いけど)捌いておられる現実がある。
患者さんの数やかけられる時間の問題ではなく、ほかの患者さんと比較したり、同じ性質/病気の患者さんを同じ括りに入れたりしない姿勢が大切なのかもしれない。

 

安易に慰めてしまう私


今回聞いたお話の中には、医療者から心無い言葉を受けてしまったというエピソードもあった。聞きながら、一つ一つの話に私も憤る一方で、私自身が「安易な慰め」をしてしまわないかどうか、不安でいっぱいでもある。
例えばちょうど今インターネットで話題になっている、ヤングケアラーについての広告(https://www.mhlw.go.jp/stf/young-carer-kouhou-r3.html)。
「ヤングケアラーは、かっこいい」という言葉が使われていて、一部反感を呼んでいる。ヤングケアラーは児童労働であり、かっこいいという言葉で肯定されるべきでないという意見である。
その一方で、ヤングケアラーが存在するという状態に向けてではなく、今まさにヤングケアラーとして存在する当事者に向けたエンパワメント(使い方正しい?)として「かっこいい」と言うことを肯定する意見も見られた。
言い古されたことだが、どの意見が正しいわけでも優先されるべきでもなく、ただときに善意から出た同じ言葉が人を傷つけたり、救ったりする。
私もきっとこれまで、安易に人を慰めようとして色々な言葉を投げてきた。これからも、有限の時間の中でそれをしないとは言い切れないのが怖い。
今回の広告のような多数/公に向けたコピーでは致し方ないかもしれないが、院内のコミュニケーションのような一対一の場ではせめて、その人の思いを聞き取ること、Iメッセージで話すことといった、一対一なりの心がけをしていきたいと思う。

涙腺、琴線、マインドフルネス

卒業旅行でディズニーに行ってミッキーに会って号泣してきた。ちなみにビリーヴでも号泣。

 

思うに、泣いているということが過大評価されすぎな場面が時々ある。
小学校で喧嘩が起きて、先生が来た頃には片方が泣いているとき。
ミスして怒られた人が泣いているとき。
映画を見終わったあとや、卒業式に甲子園、悲しいニュースに触れたとき……。
ある人が涙していることを絶対的評価で脆弱とみる文化があるから、泣き得とか、そういうやっかみまで生まれるんだと思う。

 

私自身割と表情筋がうるさく動くほうであるが、1人でお笑いとかを見ていると終始真顔だったりする。そんでもって、めちゃめちゃ楽しんでいる。
反対にメンタル落ち気味のときなんかのほうが、YouTube動画の全く意味不明なタイミングで息ができないくらい笑ったりする。
びっくりすると涙が出ちゃうだとか、意思に関係なく泣いてしまうだとかで困っている人は、Twitterでは結構見かける。
私もコロナ禍のマスク生活で、(実は友人らにはバレてるのかもしれないけども)声だけが笑っていればいいコミュニケーションの快適さに気づいた。
楽しいとか悲しいとか思っても、それがどのくらい表情筋に出るかは関係ない要素(時に社会性フィルター)の働きだなぁ、と感じる。(この辺は、哲学的ゾンビの話でもある)
結局、涙腺と琴線はそんなに繋がってないんだろう。

 

ただし、ミッキーさんと握手した私は、間違いなく感動していた。
何がそんなに嬉しいんだろう、と思ったが、ミッキーさんの圧倒的イケメン具合の前では全部どうでもよくなった。
人より感動できるとかできないとか、ツボがどうとか、俺感情ないんだよね(`・ω・´)キリッ とか、そういう文化のすべてがどうでも良くなって、
今ここに存在して、ミッキーさんに会えて、嬉しいなあ……
と、そういう状態になった。
マインドフルネスでは、嬉しい/悲しいと思っている私を受け止めましょう…とかいうけれど、
そもそもはそういうメタな話ではなくて、こうやって全部どうでもよくなる(語弊があるが)ことなのかなあ…なんて思ったりしている。