「現場の人」じゃなかった

この間、現場の人になっちゃった記事を書きました↓

 

kotoba-chz.hatenablog.com

 


が、先日、医師の衝撃発言を聞きました。
「そういうことはやっぱり現場の看護師さんたちがよく知ってるから……」

現場にいるのは看護師さん。
じゃあ、私がいるここはどこ……?

 

医師の現場はどこなのか

少し働いてみてわかったが、お医者さんは実に色々なところにいる。
看護師さんが(たぶん)概ね病棟および患者さんのそばにいるのに対して、医師というのは
病棟
外来
検査室、処置室
医局(休憩のこともあるし、カルテを書いている時もある)
カンファレンス
図書室(文献を調べる)
当直(問答無用なのである)
なんかとりあえずうろちょろしている。行く先に患者さん本人がいないことも多い。
全部ぜんぶ患者さんのために行われていて、頭の中には患者さんがいる。見方によっては全部なにかの「現場」ではある。けれど、患者さんとの関わりや対話が起きる場所を「現場」と呼ぶのなら、医師はあまり現場にいない。


ここで問題になるのはやはり、医師は何を仕事にしているのかということだ。以前から、キュア以外のケアが医師の仕事であるか考えてきたように。

多少ベクトルが変わるが、研修医2週間目の有り余る時間を活かして病棟に30分以上居座ったことがある。そこでずーっと患者さんの話を聞いていた。これは私がやりたかったことのはずだった。
なのにほんの少しだけ、「いま、何してるんだっけ」と頭をもたげた。「これ、患者さんの役に立ってるのかな。私の暇を潰してるだけじゃないのか」という疑問。消えて欲しいのに浮かんでくる、今日終わらせなければいけないタスクたち。
結局、好きなだけ話し終えた患者さんが「聞いてくれて嬉しかった」と言ってくださって、私の疑問は雲散霧消した。

しかし、そんな嬉しい言葉がなかったら?共感できる話を聞くのではなく、怒鳴り散らされるのを我慢するだけだったら?毎日毎日同じ話をされたとしたら?
おそらくさっきの疑問は霧消してくれないし、検査結果の数値が良くなるような処置をしたり、将来のキャリアに役立つような勉強をしたりしたくなる人もいるかもしれない。
早くも自分がこんなことを考えているのが悲しくはあるが、やっぱり医療におけるケアについて、自分の気持ちについて、逃げずに考えるべきだ。

 

現場のベン図は重なるか

ここで「現場」の話に戻ると、わたしたちには互いの現場が見えていない。もっといえば、現場を見せる努力をしていない。医師の現場と患者の現場、看護師の現場、エトセトラ、は重ならない。

例えば、患者として自分の生活のことを伝えるのは存外難しい。そういう話を聞いてくれる医療者に出会うまで渡り歩くことができる人も、そのチャンネルを持たない医療者を相手に自分自身について語るのはハードルが高いものだ。
検査はどのくらい痛いのか。注射はするのか。採血は。色々ググったりして心配し尽くした過程はどこにも届かない。
患者の現場は時としてしまいこまれてしまう。

他方、医療の世界に住まう医療者にとって、今起きていることを患者さんに伝えるのもまた難しい。
医学部で学んだのは医学知識ばかりではなかった。寧ろ医学という考えの枠組みがメインであったろう。
すべての医療が不確実であること、何事も100%と言いきれないこと、同じ病気に対しても施設や医療者によって異なるアプローチがあること、ガイドラインが絶対ではないこと、外来の最中なのにPHSがかかってくること。是非はさておきそういったシステムや環境を学んできたし、それが当たり前になってしまう。
実際医学は曖昧で、医療はさらに曖昧だ。多くのカンファレンスでは難しい症例について医師(時に多職種)たちが膝を付き合わせて、何十分も議論する。そのために教科書や論文をひいて何時間も準備する。
でもその過程は明かされない。患者さんはよく分からないまま待たされて、よく分からないまま決定した治療を行う。病気が治ったとしても、患者さんの方を向いていたはずの「現場」は上澄みしか届かずに消えてしまう。

横道誠ら著『ケアする対話』では、精神科の治療について興味深い示唆がなされている。「オープン・ダイアローグ」と呼ばれる手法で、患者さんの治療方針についてその患者さんの目の前で丁々発止の議論をすることが回復につながるというものだ。
これは医師の「現場」を病棟に持ち込むことだと私は思う。患者さんを目の前にすれば検討する内容も変わるだろうから、患者さんの「現場」をカンファレンスに持ち込むことでもある。
当然、現在行われているカンファレンスをそのまま病棟で行うことは得策ではない。正直言って耳障りの良くない医学用語はたくさんあるし、研修医の私でさえ意味のわからない略語が飛び交うカンファレンスを公開することがどこまで心地よいものかは疑問である。
しかしながら、互いの現場で起きていることーー議論している過程、互いが何を考えて何を我慢して何を妥協しているのかーーを共有し、重ね合わせることはできる。
それぞれの現場が可視化され、触れられるようになり、混ざり合うことができたら。
「現場」の重なりを大きくすることが、文字通り現場のレベルで始められる対話の第1歩ではないだろうか。