「現場の人」になっちゃった

今日、「現場の人」になりました。

 

 

端的に言えば、「反現場至上主義」だった。

 

「お医者さんじゃない人」じゃなくなりたくない、という気持ちは以下の記事でも触れてみた通りだ。

kotoba-chz.hatenablog.com

現場に近づけば近づくほどに、「医師」(になろうとする者)であるというだけで尊敬されたり、敬遠されたり、ジャッジされたりする居心地の悪さを感じてきた。「良くも悪くも」ではない。私にとっては完全に悪かった。

 

これに昔からの「反現場至上主義」が合併して、私は完全にこじらせていた。

遡ること10年前、私は作文コンクールで銀賞を取った。金賞の人はかなり大変な生活を送っていて、その半生を作文にしていた。

今思えば着目すべき点は全然違うのだけれど、当時の私には変な反骨精神が芽生えてしまった。このへんの心の動きはいずれ詳述したい日が来たらにするが、簡単に言えば「現場」にいるということの権力性が怖かった。このあたりは、コロナ禍で経験と思い出の絶対量を削がれてきた人にはちょっと分かってもらえるかもしれない。あるいは、「絶対留学行ったほうがいいよ、人生変わるよ、これは行ってみないと分からないよ」というアドバイスに対する得も言われぬもどかしさにも似ている。

とにかくあれが私の反現場至上主義の始まりだった。それは「現場にいない人の視点も尊重するほうがよい」くらいのものから、「現場に出て具体的な話しかできない人になりたくない」というところまでこじれた。

そして私のキャリアにおけるその「現場」は、初期研修という表札が掲げられ医師免許というパスが必要になる、あまりに輪郭のはっきりした場所だった。

 

たとえば国試の勉強一つとっても、「国試が現場重視になっている」とわざわざ言われるくらいには、本来の国試と現場の距離は遠い。「国試的に重要」は「臨床的に重要」の対義語である。それを今日、実感してしまった。

今日は初出勤で色々な話を聞いたのだが、そこで一つだけ、国試で聞いた具体的な疾患名が出てきた。

国試の勉強のときは「なぜこんな病気を出題するんだ」と思ったりした疾患だったのだが、実際の文脈の上で聞くと、それが"現場においては"重要であることがすぐにピンときた。

いま私は線を超えたんだ。そう思った。安楽椅子探偵のマイクロフトは、気づけば現場のシャーロックになっていた。

労働者/医療者としての自覚とか、そういうものは正直まだない。けれど、足並みを揃えて全うに歩んできた私は、怯えていた場所に今いる。

私は順調にパスを手に入れて、今日、「現場の人」になってしまった。