先日の勉強会の感想②

リハビリテーションについての勉強会に参加してきました。

以前から「医療」について考えてきたことをリハビリテーションで実践されているご様子をお聞きし、とても勇気をいただきました。
折角なので、この機会に改めて言葉にしておきます。
非常に曖昧な定義で「ケア」という言葉を乱用しているから、その界隈の人に怒られちゃいそうだな。


「やりたい」を叶えること


病院で「◯◯がしたい」と発したとき、「できない理由」を述べられることの多さは容易に想像がつく。
規則だから。他の人も我慢しているから。こういう病気だから。あなたはこういう状態だから。エトセトラ、エトセトラ。
こういうとき、「できる」という結論を一つでも含んだ検討をすること、少なくとも「できるようにしたい」という気持ちをもって検討をすることの温かさを、今回の勉強会で感じた。
今回のお話では、患者さんの希望を叶えるために、どのような外出形態が可能かいくつかの選択肢を提示し検討しておられた。
この姿勢にたどり着かないことが、病院ではあまりにも多いと思う。きっと、断る言葉ばかりが上手くなっていく。
それを、どんなに条件(お金にしろ、時間にしろ、質にしろ)がついても「できる、叶える」の方向性で検討してもらえること自体、救いになることもあるだろう。


例えば、注射の治療を受けたくない人がいたとき(何を隠そう私自身である。そう、痛いからである)。医学的に注射薬のほうが効果があるとき、大体の場合「これが一番いい治療ですよ」「注射打たないと治りませんよ」と説得するところから話が始まる。
国試の必修問題的には「どうして注射を打ちたくないのですか」と尋ねることになるが、結局これは理由を聞き出して説得しようという魂胆に基づいたカギカッコ付きの「傾聴」であって、寄り添いではない。
ここに、「注射以外の治療は~~~で、その場合お値段は安いですが効果はこのくらい低いです」とか、「注射以外にできることはなくて、その場合こんなデメリットがありますよ」とか、とりあえず「注射しない」という選択肢を含めた説明をしてもらえること自体により、「自分の気持ちは分かってもらえた」という気持ちと信頼が生まれる(と思う)。
そのうえ、今回のお話のように「できる」を段階に分け、実現させてもらえたなら、医療の醍醐味としてこれ以上のものはないだろうな。

 

「医療」の範囲、「リハビリテーション」の範囲


医療、こと診断〜治療のプロセスにはガイドラインや原則があることも多いけれど、それでもその実践には揺らぎがあるし、医療者や患者の経験にも幅がある。
所謂「医者ガチャ」「療法士ガチャ」みたいに、正直誰に当たるかで予後なり生活なりが変わってしまうこともある。
なるべく日本のどこであっても均質な医療が届けられればいいのだろうけど、地域や運やなんやらかんやらによって格差は生まれてしまう。
この「個人/病院による差」の部分を、医療は何処まで減らそうとするべきなのか、
もっと言えば、どこまで底上げしていくことが「医療」の範囲に含まれるのか、だいぶ曖昧なままだ。
極論「ケア」と「キュア」を完全に分離して、分業していく道もあるだろう。
私自身はケアに寄って医療に携わっていきたいと思うけれど、それが医療のスタンダードであるべきか、医師全員の仕事であるべきか、正直よくわからない。

例えば、医療以外でも経験のバラつきはある。デパコスのBAさんの対応とか、Twitterでいつも話題になってる気がする。
そういうものと比較しながら、医療におけるケアの割合をどのくらいで想定するのか、されているのか、定義上ケアは強制できるのか……色々考えたいことがある。

……と、こんなことを考えながら過ごしてきたので、実際に「リハビリテーション」の定義を広げながら患者さんの支援を第一とした実践が行えるのだというお話は、いつか未来の私にとって勇気になるのではと思った。

 

人生を支えることを、なんと呼ぶか


私が医療についてその定義を探っているように、今回は、リハビリテーションが単なる機能回復訓練に留まらず患者さんの人生を支援していくことだというお話を伺えた。
リハビリテーションのためにリハビリテーションをしているのではなく、患者さんらしい人生を送るためにリハビリテーションなり診療なりをしているわけだから、それこそが医療というものの根本であると思う。
さて、本題とはズレてしまうかもしれないが、果たしてこの支援をなんと呼ぶべきかも面白い話だ。
患者さんの希望によって関わる職種は変わってくる。もっと広く(時に浅く?)多職種が関わったら、より持続可能になったりしないかな。
そうなると、人生を支えることそのものをやっぱり、「医療」と呼んでも差し支えないのかな、と思ったり。

 


コメディカル」という言葉


医師の指示がないとできないことが存在するのは、なんかもう仕方ないという気がしてきた。法律だし。総合的に見るというのは、誰かがやらなきゃいけないことだし。
それをどうして、縦ではなく横割と認識できないのかなあ。
私の実感としては、6年間「実践」より「判断」を学んできた。実践は多分この4月からになると思う。だから「判断」が医師の仕事であるのは致し方ない。そういうものであろう。
飽くまで権力勾配の発生しない判断と実践の分業としか思えないし、私の微々たるポリクリ経験からはそうにしか見えていないのだけれど、色々な人に鳴らしていただく警鐘によれば現実はそうでもないらしい。
私自身、例えば無自覚ホモソ男性や無自覚都会民たちにしばしば憤っているわけだけれど、その逆が既に自分に起きているならすごく、すごく嫌だなあと思う。
これから誰もフィードバックしてくれなかったら?無自覚権力医師と諦められ続けて、対話の機会が失われてしまったら?
誰のためにもならないし、すごく寂しいなあ。(記事を見返したら、1年前も同じことを言っていた。)
とりあえず、「コメディカル」という医師だけが含まれない言葉があるのはおかしいので、何とかしたい。