先日の勉強会の感想

勉強会に参加してきたので、その感想を。
リハビリテーションについて、くも膜下出血を経験した当事者の方のお話を聞けるというものでした。
その場でどういう話があったかというよりは、私が考えたこと、考えるべきと思ったことをメインに書いていきます。

 

 

フィードバックと教育の機会


治療や診断ではなく関わり方の面においてフィードバックを受ける機会が無い、という話題が出た。
確かに私も実習で患者さんとお会いする機会は何度かあって、(声をかけやすい患者さんには、だけど)自分の態度で不適切なところがなかったか、改善するポイントはないかお聞きしていたのだけど、優しい方たちだったからいつも「何もありません、素敵なお医者さんになってね」と言ってもらっていた。
私は自分の不用意な発言をありえないぐらい引きずるほうだし、そう言って貰えたこと自体は嬉しかったけれど、そんなわけで実習を通じて私のコミュニケーションは改善しなかった。
OSCEの練習も同様。模擬患者さんや同級生にフィードバックを貰う機会は数回あったけれど、「笑顔がいいですね」とか「もう少しハキハキ喋るといいですね」とか表面をなぞる様なことばかり。私もみんなへのフィードバックを無理やり捻り出した記憶がある。
医学を飛び出してみても叱られるうちが花とか言うように、人はだんだん他人からフィードバックされなくなっていく。
ここからだいぶ主観の話になってくるが、、
以前、先生に勧められてクィント・ステューダー『エクセレント・ホスピタル』という本を読んだ。病院では適切なフィードバックをしよう、互いに褒め合い空気をよくしよう、みたいな内容で、とてもいい本だった。
が、医師をはじめ医療者のあいだには、こういう正攻法のビジネス書のマトモな言い分のことを、「なんかしゃらくさい」と思う風潮がある気がする。(うちの大学がそういう人の集まりという面もある)
「うーん、まあ、世間的にはそういう方法もあるでしょうねえ?」みたいに、ずっと斜に構え続けているというか…。
医療の外でも年齢や権力のためにフィードバックはされにくくなり、それを打破する方法論もたくさん考案されてきたはずなのに、医療の世界では真っ当に向き合われていないように思う。
一人一人の心がけを超えて医療者全体の意識を底上げしていくためには、ずっと精神論でいてはいけない。入試における面接や少しずつ増えてきた倫理の授業が具体的な前進の一環であろうし、勿論まだまだ足りていない。
長くなってしまったが、医療の世界にある謎のバリアをどうやって“ひろく”破壊できるのか、これから考えてみたい。

 

「患者さんの意思」の暴力

私はかねてより意思決定の分野に興味があって勉強しているのだが、強い言葉を使うなら、「患者さんの意思」を尊重するという大義名分のもとで、それが暴力に変わりつつあると思っている。自律しているんだから自分で決めてくださいね、自分で決めたことだから受け入れなさいね、という感じ。
行岡哲男『医療とは何か』だったと思うのだが、病気の1要素に「理不尽さ」があると述べられており、私は結構納得している。
病気になって、病院に行って、そもそもが理不尽な状態であるのに、その中で最善を尽くして選んだことの結果にまで全責任を負う必要性があるのだろうか、と疑問に思われる。
患者さんがこれからの人生を少しでも上向きに歩んでいける助けができればいいのに、患者さんの生活のことを医療者が決めたり、医学のことを患者さんが決めたり、色んな倒錯が悲しい結果を生むことがあるのではないかな。

 

人対人として


患者さんどうしを比較するのではなく人対人として関係を築く、という話が出た。今までちゃんと言葉にしたことがなかったので、心に響いたことの一つだ。
よく聞く話として、たしかに患者さんにとっては人生の大きな割合を占めることもある「疾患」だが、医療者にとってはn分の1である。
だが、心を尽くして患者さんを診ている先生方でも、数多くの患者さんを、(言い方悪いけど)捌いておられる現実がある。
患者さんの数やかけられる時間の問題ではなく、ほかの患者さんと比較したり、同じ性質/病気の患者さんを同じ括りに入れたりしない姿勢が大切なのかもしれない。

 

安易に慰めてしまう私


今回聞いたお話の中には、医療者から心無い言葉を受けてしまったというエピソードもあった。聞きながら、一つ一つの話に私も憤る一方で、私自身が「安易な慰め」をしてしまわないかどうか、不安でいっぱいでもある。
例えばちょうど今インターネットで話題になっている、ヤングケアラーについての広告(https://www.mhlw.go.jp/stf/young-carer-kouhou-r3.html)。
「ヤングケアラーは、かっこいい」という言葉が使われていて、一部反感を呼んでいる。ヤングケアラーは児童労働であり、かっこいいという言葉で肯定されるべきでないという意見である。
その一方で、ヤングケアラーが存在するという状態に向けてではなく、今まさにヤングケアラーとして存在する当事者に向けたエンパワメント(使い方正しい?)として「かっこいい」と言うことを肯定する意見も見られた。
言い古されたことだが、どの意見が正しいわけでも優先されるべきでもなく、ただときに善意から出た同じ言葉が人を傷つけたり、救ったりする。
私もきっとこれまで、安易に人を慰めようとして色々な言葉を投げてきた。これからも、有限の時間の中でそれをしないとは言い切れないのが怖い。
今回の広告のような多数/公に向けたコピーでは致し方ないかもしれないが、院内のコミュニケーションのような一対一の場ではせめて、その人の思いを聞き取ること、Iメッセージで話すことといった、一対一なりの心がけをしていきたいと思う。