宗教を作ろう② メッセージを考えよう

前の記事から1年経ってしまった。


「場」の力

メタ、というのを1つ芯にした宗教になる予定だが、具体的にどういったメッセージ性を持つのがいいだろうか。
メタに関連して、「場」という言葉の力について最近考えている。「雰囲気」でも「状況」でも「環境」でもなく、placeでもfieldでもなく、「場」。有限の広さのことを指しながら、全くもって抽象的である。
私が6年間、社会学のほんの上澄みだけを啜って学んだことの一つが「関係性」であり、「場」はそれを表すのに至極適当だ。
私たちは「個体」として存在していると思っているが、本当は数多の連関の中にいる。関係性と関係性の間で私の輪郭が形成される。自他の境界は時に不安定であって、揺らめきながら、それでも私は存在する。誰も私たちから関係性を奪うことはできない。
そんなネットワークの糸のカタマリが、「場」。(これは私が今定義した。正確なことはわかりません)
場、というのは基本的には認知可能で定義不可能な、絡まりあった糸の一定の範囲のことを指す。無限に広がる糸を無理やり切り取る、人間のための行為である。
本当の私ってなんなんだ、なんていう無限の問いから脱して、この「場」のなかで私はなんなのか、考える時代が来たのではないだろうか。
「場」に居を構えるからこそ、そこから浮いた「私」を捕える準備ができるのではないか。

 

「場」はどういうメッセージになるか

なんかこういう、何言ってるのか正直分からない学者みたいなこと、言ってみたかったんだよね~!

でも実際、最近は自分を掘り下げるムーブメントーー内省ーーが大きくて、関係性に焦点を当てた考え方のフレームワークーー言うなれば外省ーーはあまり観測できない。自分も他者も変化していく中で、ナイスアイデアかも。

例えば……既存のフレームワークには、自分自身を俯瞰するものが多い。
環境や自分や他人は常に変わっていく。時には急激に。けれど、時間軸の上を脈々と続く自分だけをメタ的に見ているからこそ、現実や過去とのギャップに苦しんだり、変化するのが怖くなったりする。
「今ここ」の「関係性」の中の自分、という視点をプラスする必要があるのではないか。

という感じ。
方向性が定まってきましたね。