お医者さんになりたくないーー当事者の当事者性

今すごくお医者さんになりたくない。

医師という仕事には就きたい。医師のマインドになりたくない。お医者さんになりたくて、なりたくない。

 

私の中の偏った医師像

当事者研究の本、という括りではないのだろうけれど、「当事者」によって書かれた本を立て続けに何冊か読んだ。

医療、中でも意思決定に興味を持ち、幸運なことに、パターナリズムをはじめとした従来の医療に問題意識を抱くさまざまな先生方に出会うことができた。患者さんと共にあゆみ、同じ方を見て、なんとか生きやすくできるように考える、そんな先生方に複数出会い、コロナ禍の中でも診療の現場を見る機会を与えていただき、ロールモデルにすることを決めた。時にはそのような素敵な診療をされている先生に連絡を取り、出向いて、見学をさせてもらった。

私の中の医師像が、良い方に偏るわけだ。

そういう先生方は皆、「そうではない」ーー素敵ではない医療(あえてこう呼んでみることにする)に危機感や問題意識を持ち、年月をかけ、今の立場を得て、素敵な医療にたどり着いているのに、私はその出来上がったところだけ味見して、「皆さん素晴らしい先生だ」と思っているわけだ。

そして、(私の思う)あんまり素敵じゃない医療に出会った「当事者」たちが批判する素敵じゃない医療たちを見ても、私の出会った素敵な先生方ばかりが浮かんで、やるせない気持ちになるのだ。みんな頑張ってるのにどうして伝わらないんだろう、と。別にみんながその方向で頑張っている訳ではないのに。

 

失いたくない

同時に、立派な医学生になってしまった今、まだ少しだけ残った「お医者さんじゃない」という肩書きをもうすぐ失ってしまうのが怖いのだ。

医学生は医学知識も経験も何もかもが足りない分、ほとんど「お医者さんじゃない」ーー「患者さんに寄り添える」ということだけを存在意義にして病院に居る。と私は思う。私は臨床実習の間中自分の異物感が拭えず、医者でもないのにどうしてここにいるんだろうと思い続け、そして「医師じゃない者」としてのコミュニケーションだけを頼りに病院に存在してしまった。もうすぐ私は「医師じゃない者」じゃなくなる。医者じゃない者じゃない私は、何者になるんだろう。

 

決めつけてはいけない

医師も患者も、互いのことを決めつけすぎなのかもしれない。いや、人類皆そうなのかもしれない。コミュニケーションエラー、いろいろな齟齬が決めつけから生まれているのかも。

そして前述のような先生ばかり見てきたし、患者としても大した病気はしてこなかったせいで、医師という権力が持つ暴力性はあまり目の当たりにしてこなかった。

その権力勾配のせいで、医師が患者を決めつけることの方がずっと危険なことかもしれないのに、私にはまだその実感がない。

と共に、「現場」のレベルでなく「出版物」でしか患者の決めつけに触れられない、いち医学生である私は、「出版物」の権力性、暴力性にあてられてしまう。自己防衛のような義憤のような、変な気持ち。

 

当事者の当事者性

つまり私は、患者にとっての自分が「あっち側」の人になってしまうのが怖いのだ。いくら時間をかけて、いくら「それはお辛いですね」と言ったとしても、いつの日かそれは「あっち側」からの労りになってしまう。

医学生が「こっち側」だったかは置いておいてーー。医師は何の当事者にもなれない(医学生もだけれど)。そのことが私には負い目に思われる。誰も本当の意味で共感することはできない。それこそが当事者研究や自助組織の意義であり、医師はその点で凄く無力だ。そこを批判されると本当に、ごめんなさい、としか言えない。

表面的な知識しか知らないーー純文学の冒頭しか知らず一切読んだことはないクイズ屋みたいなーー医師の存在意義って何なんだろうか。医師法を超えたところで患者を支えられる医師に私はなれるだろうか。ーー理想論のレイヤーにおいてさえ、「わかること」はどこまで医師の仕事に含まれるだろうか?

こういうどうにもならない気持ちが、反対に「当事者」への釈然としない感覚につながってしまうのかもしれない。医師は医師で何処か疎外されている。

 

当事者としてしか

ここで少し話を広げて、病院の外に目を向けてみると、あちらこちらに「当事者」はいる。マイノリティ、差別、といった文脈で特に当事者は存在する。

近年(Twitterで)よく見るのは、いろいろな会議のメンバーや議員や管理職の男女比をもってして、「女性がいない」と問題提起される事態だ。

クォーター制度の是非は他に譲るとして、「当事者」論から行けば、当事者としてしか声を上げられない構造こそが問題であると今の私は考える。

その「当事者」たちーー時には私自身もそこに含まれるのだーーは、歴史的文化的に声を抑圧されてきた現実があり、今ようやく当事者として声を上げることができるようになってきた。反対に、当事者という枠組みの中、当事者という肩書きの元でしか声を聞いてもらえない時がないだろうか。

ある集団に女性がいない時、男女差別の被差別者の当事者としての女性がそこに求められている。本当の意味で望ましい平等はもっと先にあると私は思う。

私が(仮初の)当事者性の喪失を恐れているのはその辺りの構造に由来しているのだ。

 

ーー以上、問いばかりで答えの見えない雑記になってしまった。最近はこんなことを考えています。