旧帝医学部にギリギリ届く「地方出身」が今思う、地域格差のこと

こちらの記事で書いた通り、私は所謂地方の中核都市(の中では田舎の方)で高校生までを過ごし、そこそこ都会の大学に行っています。

 

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地域格差が叫ばれる中、典型的な「地方」と「都市部」の中間を経験した者として、何となく思うことを書いてみます。
いくつか前提です。
まずは、あくまで地方の中核都市の話であるということ。規模で言えば、私立より公立の学校が賢く、進学校は無いが自称進学校はあるような、そんな地域の話です。もっと人口規模の小さい地域、もっと選択肢の少ない地域があるということは重々承知していますし、その上でこの発信を意味あるものにしたいと思っています。
それから、地元は好きだということ。今はもう離れていますが、そこで生まれ育って今に至ったことで得られたものが沢山あるし、誇りに思います。愚痴が沢山書いてあるように見えますが、同じ境遇の人が沢山いることも知っているし、自分の性格からしても、私は私がこうでよかったと思います。

<教育格差>
そもそもこの記事を書いたのは、同級生の一言からでした。彼は大学の近くにある、国内有数の大都市(私から見れば憧れの街!)で生まれ育ちました(多分彼にその自覚はないと思います)。
臨床実習の空き時間、我々はかつての受験勉強の話をしていました。「どこの塾に行っていたか」という話です。
私は塾に行っていなかったので、分かってはいたものの「塾に行っていた」ことがこれほどまでに当たり前なのかと驚きました。そのうえ、彼らには塾の「選択肢」があるのです。家の周りに何種類も塾があって、その中から自分に合ったものを選び、時には複数の塾を掛け持ちしていました。驚いたのは、皆その上かなりの進学校に行っているということ。当たり前のように中高一貫校で、進度も速く授業も勉強もこなしてきたのに、それに塾まで行っていたことです。私はもしその環境にあっても、そんなには勉強できなかったと思います。そんな凄い学校に行っておいてなぜ塾に行っていたのと聞いてみましたが、演習量を担保するためだそうです。
そして私は塾に行っていなかった、いや正確に言うと塾がなかったと答えたわけです。さらに正確に言えば、一つだけ予備校の通信支店(?)みたいなのがありますが、録画の映像講義を見るだけなので私は通いませんでした。
すると例の友人がこう言いました。
「そんなこと言っても、駿台ぐらいあるでしょ?」
私の地元にはそんなものはありませんでした。駿台河合塾も聞いたことはありましたが、見たことはありませんでした。ただ、駿台と河合の模試は受けることができるくらいの地域でした。でも駿台河合塾も県内には一つもありませんでした。通っている友人も、勿論一人もいません。
というわけで、この記事を書くことにしました。
私が気づいた、彼らの「王道コース」と私の地元の違いです。

・塾
初めから核心に迫りますが、予備校がないです。駿台河合塾もないです。地方の個人塾しかない。うちの地方から都会の学校を目指そうとすると、いつ何をすればいいのか、ライバルたる皆がどんな勉強をしているのかわかりません。学校の授業を地道に聞くのみです。

・塾の目的
うちの地域では、学校の授業についていけない人と、学校の進度が遅すぎて受験に間に合わない人が行くのが塾というものでした。学校の進度に合わせて勉強しているとレベルの高い受験には間に合いませんから、なんとか全国レベルに追いつくために塾(その、たった一つの支店!)に行くのだと思っていました。
ところが前述の通り、塾とは演習量を確保するために行くところだそうです。進度は学校で十分で、それに合わせて塾で演習をする。私は(進度は遅いながら)その演習を市販の問題集でこなしていたのだと思います。塾にそんな使い方があるなんて思ってもみなかった。

・学校がない
いわゆる進学校は、私の地元にはないと思います(うちの学校の先生方は進学校だと思っているようですが)。曲がりなりにも県下一位の高校に通いました。中高一貫ではなく、進度も以前の記事の通りなのですが、でも他に行くところはありませんでした。うちの県内でそこそこ頭がいい人は、そこしか行くところがないんです。実力が如何程であっても、全国何十位でしかない県下一位の高校に通うしかないんです。

・友人たちと進学先
学校がそんな具合ですから、進学先と言えば県内の国立大学が至高。旧帝大にも行く人はいますが、メインの層はそのあたりです。自称進学校ですから高校くらいになれば、勉強しているとからかわれるなんてことは幸いにもありませんが、そこを一緒に目指す人がいないというのは何とも心細い。
何よりレベル感が分からないのです。自分で言うのもおかしいですが、校内では(たぶん)誰もが認める成績1位を誇っていました。でも、模試は全部E判定。学校でいくらいい成績をとっても、受験の目安にはなりません。クラスも「東大クラス」なんかなくて、理系と文系があるくらい。
高校で20位だったらここの大学を目指せるとか、そんな話が初めは信じられませんでした。私が今いる大学は、各学年の1位の中でも選ばれし人が受けるところだったから。
つまり、どのくらい勉強すれば、もしくはどのくらい賢くなれば受かるのか、というのがさっぱりわかりません。目安がない状況でしがみつこうとするのは、精神的に辛いものがあります。
これはきっと、高校のレベルに見合わない高いレベルの大学に行こうと頑張る人は皆ぶつかる壁でしょう。しかし、もっと根の深い問題だと感じるのは、県下一の学校にいてそうだということです。つまりうちの県で生まれた人は、越境しない限りみんなこの環境だということです。
塾に行かないと、ひいては特定の数社の予備校に通わないと行けないような大学が存在するということは、経済格差だけでなく、地域格差を産んでいます。

・それでもなお、彼らは凄い
それでもなお彼らは凄い。私はそう言いたい。
この文脈で話が進む時、地方から1人頑張った私は偉くて美談であり、王道コースを辿った彼らは「エリートコースの敷かれたレールを行く、自分の意思のない無個性な子供たち」だとされるのです。私はそれにも断固として反対したい。綺麗事みたいだけれど、皆それぞれの場所で頑張っているのに。
私の場合、自分の正確な立ち位置が分からなかったがゆえ、自分自身の知識と、そして問題集とひたすら対峙してきました。それを彼らは、幼稚園の時から、もしくはその前からずっと競争をくぐり抜けてきた。小学生のころ名門中学の過去問など解けるはずもなかった私は彼らを本当に尊敬するし、彼らのしてきたことは全く卑下されるべきものではありません。争い続け、勝ち残り続けることが王道ルートなら、それはまさしく王になるための道ではあらんか。


<情報量の差>
東京の人口というのは日本のたった1/10でしかなく、例えば左利きの人やAB型の人よりも少ないはずですが、それでも東京の人は圧倒的マジョリティです。もちろん、東京に直ぐに出られる関東周辺の人々も含めれば人数は多くなるでしょうが。
たとえばテレビ。全国区のテレビ放送を見ていて、東京のお店が紹介される割合が1/10かというと絶対にそうではないでしょう。連日東京の素敵なお店たちが紹介され、朝のニュースで申し訳程度に地方のニュースを2分くらい流す。
ちなみに、この「地方」という言葉にも驚きました。だって東京の人は、大阪や名古屋や神戸のことを地方と言うんです。「地方」はある程度の田舎のことを指すと思っていたので、名古屋を地方というなぞ、なんて傲慢なんだと私は憤ったものでした。今は分かります、東京の人達は東京以外のことを地方と呼ぶのだと。
だから私たち、本当の地方民が思う東京への憤りは、関西の大都市におけるそれとは少し違います。「かっこつけやがって、しゃらくさい」という気持ちは毛頭ありません。「東京は冷たい」とかも思いません。もっと別の、恨みつらみ僻み……(笑)
ただ、楽しめてないなあ、と思うんです。雑誌の特集も、テレビのニュースも街ブラも、歌詞やラジオの地名も。東京とは天気も違う。地下鉄や自動改札が私には想像できない。東京の地名を聞いても、イメージがわかないーーー渋谷は若者の街、銀座は高級な街、それ以外は何も知らなくて、北千住というのはよく聞くので皆の憧れの街だと思っていたんです。「新宿は豪雨」の情感も、「文化祭で儲かる東急ハンズ」の面白さも、私の届かないところに向けて発されている。公演やコンサートが都会でしか行われないことだけでない、もっと切ない文化的な格差がそこにあります。
例えば私の好きなラジオでデニーズの話をしていましたが、私はデニーズを見たことがありませんでした。それを自己中心的だとは思わないけれど、だけど、東京にいたらもっと楽しいのかなあと、典型的な憧れを抱きました。ちょっと悔しくて、寂しくて、羨ましくて、少し嫌いになってしまうんです。ーーー「北から目線」の奥にある、少し歪んだ視線の話。