勉強会の感想③

多職種連携について考えるzoom勉強会に参加してきました。
というわけで今回は多職種連携について考えます。

 

多職種連携とは

多職種連携と言うとき、それは具体的にどんな状況を表しているのか。多職種連携のゴールとは、達成とは、何を意味するのか。

同じ疑問は、当事者の方のお話のなかで「障害受容」という言葉について投じられた。障害受容せよと言うが、何ができれば障害受容を成したことになるのか?

同様に、多職種連携とは何なのか。職種間に今ある明らかなコミュニケーションエラーが排せればいいのか。互いの仕事をわかり合えればいいのか。皆で集まって腹を割って会議できればいいのか。ともに時間を過ごせばいいのか。

個人的には、リスペクトをもってうまく分業していくこともまた多職種連携のあり方であると思う。それから、職種を理由にした壁がどこかにあるのなら、それを排除することも消極的な多職種連携といえよう。

たぶんこのあたりのゴールは人によって違う。「多職種連携」のイメージが揃わないとしても、その解像度を上げる努力を放棄してはならない。

 

 

コミュニケーションの手段

職種間の連携を相互理解だけに帰したくはないけれども、でもやっぱり他の職種への理解の浅さ、イメージのつかなさ、エトセトラ......によりスムーズなコミュニケーションがとれないことは多いと思う。

一ヶ月働いてみて気付いたが、病棟にいてたまたま声をかけられることがままある。

 

kotoba-chz.hatenablog.com

例えばこちらの記事でも書いたように、医師はあまり病棟にいないし、看護師さんはよく病棟にいる。

どこでもできる仕事があるとき(で疲れていないとき)私はなるべく病棟にいるようにしていて、それは一度病棟でたまたま呼び止められて以来だ。

「◯◯さんの担当の先生ですよね?これを聞きたかったんですけど」と。

対面で話ができればもちろんPHSにかける手間は省けるし、もしかするとより詳細な話ができるかもしれないが、私が思うメリットはそれだけではない。病棟では、「電話するほどでもないようなこと」が聞けるようなするのだ。(医療者からしたら当たり前なんだろうか?)

 

電話のハードルは高い(単に私がコミュ障ということではなく)。

上の先生はだいたい忙しそうにしているので、今何しているかわからないところに電話をかけるのは難しい。外来中にかけようものなら先生がどれだけ不機嫌になろうことか、ああ、こわい。

このあたりの心情は看護師あるあるとかでよく語られているのだが、一方で電話を受ける医師としても電話は怖い。電話が鳴るとどうしても緊急かと身構えるし、処置中、外来中、カンファでまさに喋っている途中など、どう頑張っても電話を優先できない瞬間が意外と多いのである。電話を取りたい気持ちはすごくある(私は)。でも取れないときが、ある。電話が鳴ると変な空気になるときもあるし。

そんなわけで、電話をかけて相談するというのは、そのへんを歩いている暇そうな研修医(こと私)を捕まえて話をするのとはわけが違う。この差により、「電話をかけるほどでもない事項」が存在する隙間が出てくる。

相談のハードルといえば、逆もまた然りである。研修を始めて一ヶ月が経ち、もちろんローテ科のかねあいもあるだろうが、正直言って看護師さん以外の職種が普段どこにいるのか私は知らない。療法士さん、栄養士さん、薬剤師さんに連絡を取りたいとき、病棟で偶然出会って捕まえる以外の方法を知らないのだ。多職種連携の心構えが足りないとかではない。連絡手段がないのだ。

もちろん頑張ればないこともない。リハの時間まで病棟で粘り続けるとか、薬剤部の本丸に乗り込むとか、なんとかできなくはないがそこまでするほどの用はないから諦める。

そうなると対話は削がれ、不満が溜まり、溝は深まり、最終的には実際に不都合が生じるかもしれない。

というわけで、コミュニケーションの方法が重要だ。決して医師が病棟にいるべきという話ではない。コミュニケーションの方法、というか「手段」がもっと色々あるべきだ。

カルテ上でやりとりできる病院も多いし、PHSがいずれ院内スマホになればメールやSMSが主流になるかもしれない。コミュニケーション手段がシステムで改善できるチャンスを狙いながら、地道に病棟に足を運んでみようと思う。

 

職種というリスク

「多職種連携」ではやはり複数の「職種」が集まることが大切になる。こと「多職種連携」それ自体を目的にして人が集まる場合、ある個人がその職種の代表になりかねない。人を職種で区切ること、それ自体にリスクがあることを私は忘れたくない。

私だってデカい主語で喋ることはままあるが、、それでもやはり、人をカテゴライズして話すことはナンセンスだし、行き過ぎれば差別や偏見にもなりうる。人を分類することはときに話を単純化するが、そのぶん心にストッパーをかけるのだ。

ストラザーンが『部分的つながり』で言っていた(気がする)が、たとえば同じフェミニズムの文脈においても白人女性の経験と黒人女性のそれでは意味合いが異なるのに、フェミニズムというカテゴライズはその差を残酷にも矮小化する。

職種も同様であって、医師はこう、看護師はこう、療法士はこう、と語ること自体に常にリスクがある。

 

無論、抽象的な話をすべて排除して固有名詞で語ろうなんて過激派ではない。

ただ、「職種」どうしが連携することや「職種」間の溝を埋めること自体を目的としたとき、「私」が「職種」の看板を掲げることは不可避である。

 

ちょっと話が逸れるが、人類学というのはその揺らぎに向き合ってきた学問なのかなと思う。オモシロ文化の百科事典でもなく、思いつきの帰納法でもなく。個人を個人としてリスペクトしながら価値のある理論を見出す。

私は正直その域に至れていないけれども、ずっと人類学に感じてきた違和感が今ここで昇華されて、人類学を齧ってきた意味になりつつある。

多職種連携も同様で、勉強会の最後に少しだけ話題に上ったように人として認め合いながら、多職種が協力して価値ある医療を行う道を探りたいと気持ちを新たにしている。