痛みの肯定

アネマリー・モル『ケアのロジック』を読み意見交換する機会を得た。意見交換で得た考え方、調べたこと、そして新たに自分が思ったことなどを記していく。

『ケアのロジック』ではケアのロジックを選択のロジックと比較しながら、ケアの現場が単純な意思/選択のみで表される場ではないことを述べている。冒頭ではこの本に際し「ケア」と「キュア」を区別しない旨記されている。

ケアとキュアの区別があることすら初めて知ったのだが、少し調べただけでも、

Cure(キュア)とCare(ケア)は医療の基本的概念であり,「キュアは生物医学的な疾患を医学的な治療によって治すもので,おもに医師が担当する,ケアは病いに悩む患者に対し,全人的なアプローチをするもので,看護師が担当する」と捉えられることが多い.しかし,慢性疾患が増えている今日,キュアとケアの意味が変わりつつある. 

1.医療におけるキュアとケア (臨牀透析 34巻3号) | 医書.jp

 このような区別が出てきた。キュアが病気を治すこと(=医師の仕事)、ケアは精神的・身体的に患者を支えること(=看護師の仕事)と理解して良さそうだ。

そして今回の意見交換を踏まえて新たに定義するとすれば、「医師によるケア」と呼べる。

これまで病院にかかってきた中で一番「こういう医師になりたい」と思ったのは、先生が私の検査画像を見ながら「これまで痛かったね、よく我慢したね」と言ったときであった。その瞬間、これまでに感じてきた痛みが正当化されたように思った。より詳らかに述べるならば、

・自分が感じてきた痛み(時に自分が痛みに弱いせいだと思ったり言われたりしてきた)に、痛くて当然な生物学的根拠があった

・痛いと感じていたことを他者(特に権威のある他者)に肯定された

・他者が自らの痛みを一定の知識に基づき慮ってくれた

というように表せる。

続いて私はその検査画像を一緒に見たのだが、何が痛みの根拠となるのか一切わからなかった。そのため1点目で重要なのはそこに生物学的根拠があることであり、私がそれを理解できたことではなかった(自分の理解が必要条件となる人もあるだろうが、私の場合はそうでなかった)。想像するならばそこに生物学的根拠がなかったとしても、例えば同じ症状を持つ人が少なくないと分かっていて疾患又は症状として認知されているのならばある程度安心できただろうと思う。少なくとも、そこで生じる不安は将来の治療法等に関するものであって痛みに関するものではない。以上を踏まえて本記事のタイトルを「痛みの正当化」ではなく「痛みの肯定」とした。

また、家族や友人たちが体調の悪い私を心配してくれたことはもちろんあるが、その時とは性質が違う安堵であったことを強調しておきたい。家族や友人の心配は自分の経験を踏まえた「同感」だったり、私の状況を想像しての「共感」だったりするが、医師によるそれは「推測」「推定」であろうと思う。それは時に、痛みを自分のものかのように感じる気持ち、患者を慈しむ気持ちを欠いているかもしれない。しかし一定の(医学的)信頼のある人が推定してくれた事自体が意味をもっていた。

 

まとめ

「キュア」を提供する側とみなされてきた医師が医学知識に基づいて痛みを肯定することで「ケア」をもたらすことができるかもしれない。

 

今後の課題

医師がもたらすケアにはほかにどのようなものがあるか。それに必要な条件とはなにか。