学生の侵襲性

そもそも侵襲という言葉は医学生になって初めて聞いたもので、その上何の説明もなく多くの先生に使われるものだから帰納的な理解だったが(この辺りはいずれ別の記事にしたいと思う)、とにかくも調べてみた。授業を受けながら医学生の侵襲性について考える機会があったからだ。

 

コトバンクで失礼するが侵襲とは以下の通りだ:

 

しん‐しゅう〔‐シフ〕【侵襲】

[名](スル)
侵入し、襲うこと。
医学で、生体内部環境恒常性を乱す可能性がある刺激全般をいう。投薬注射手術などの医療行為や、外傷骨折感染症などが含まれる。

kotobank.jp

まず、“体内の恒常性を乱す“ことが侵襲的であるという理解を全くしていなかった。文脈的には「患者さんにとって辛い」という程度にしか分からなかった。
それから少し人文科学系の文脈で用いられるようになると、「患者さんのものである体に入り込んでいく」という「心理的な壁を乗り越える感じ」も強調されるように思う。
つまりこの時点でタイトルの「医学生の侵襲性」という案は間違いだったか少なくとも人文科学的な使われ方をしているものということになる。
この医学生の侵襲性が一体何かということだけれど、つまり患者の権利が尊重される今、医学生の権利はどうなっているのか?という問題なのだ。
患者の権利、つまり知る権利知らない権利、自己決定権などが大いに尊重されるようになってきた。それは治療だけではなく診断や検査にも適用されるし、「侵襲性」の大きいものほど患者さんの意思をしっかり確認しないと、ということになっている。


一方で、医学生は医師になるために、ある程度の侵襲を覚悟しなければならないらしい。
実習の授業では互いの身体診察をする。例えば耳鼻科でよくあるような「あーんしてください」をしたり、眼科の「あっかんべーしてください」をするだけだが、大仰に言えば器具を突っ込んだり、フツウの友達同士ならしない接触をしたりする。
そしてお決まりの「○○の診察をしますが、よろしいですか?」を(患者に見立てた)友人に問うのだが、それに対してNoと言うことは想定されていない。大して仲良くない友達に身体診察されたくなかったとしても。
加えて男子生徒は度々みんなの前に立たされ、「身体診察のお手本」の被験者になる。一応「ちょっと君、いい?」と疑問形にはしてくれるが、大した意味はない。
つまり、「些細であっても私の個人情報は曝け出したくない」「触られたくない」といった医学生の訴え、自らを侵襲してくる学問への訴えには行き場がない。


ここには自分たちも友達を診察して勉強するのではないか、という反論がある。それに対し言い訳がましく2つのことを言ってみる。
1. 互いに診察してみることはたいへん勉強になりはしたが、必須だろうか?(昨年度など、COVID-19パンデミックの影響でこういった対面の実習ができなかった学校もあると思う。そして彼らは今頃なんの問題もなく病院実習に出ている)
2. 少なくとも許可を得るべきではないのか?我々が患者として病院に行ったら許可を取ってもらえること(もしくはそれなりの侵襲性を覚悟して自発的に病院に行くもの)がどうして医学生というだけで犯されなければならないだろうか?許可制にできなくとも、その日どのような侵襲性を伴った実習が行われるかくらいは周知しておくべきではなかろうか?(服装などの現実的な利便性も改善するし)


書いていてやっぱり言い訳がましいし、道徳的にはこのようなこと提起すべきではないが、倫理的には太字の部分くらいは一考の余地があると思う。いや、逆か。