死刑廃止の論拠について

死刑廃止については何回か討論をしたことがある。全くもって素人だけれど、この間トレンドにのっていたのでここに私見を貯蔵しておこう。

率直に言えば死刑廃止には賛成でも反対でもない。ただ、国連やその他の団体から日本という国に向けて圧力がかかるのが解せないというところだ。
死刑廃止を巡る意見は様々あるだろう。
犯罪の抑止力や遺族感情の問題、経済的な事情、そして冤罪、更生、人権問題。それぞれの国が、それぞれのバランスをとって死刑を存続させたり廃止したりしている。
国連や他国、何らかの団体からのメッセージは主に人権問題であるだろう。冤罪のリスクはゼロにならないとはいえ、科学技術の発達した監視社会において、現在死刑に処されるのは有罪が確実な人だとして良さそうだ。もしくは、他の刑罰であっても冤罪が生じうるのだから、下に述べるとおり死刑と他の刑罰との違いを明らかにしてから語るべきでもある。

では、人権問題を理由として死刑廃止を訴えるのは正当化されるだろうか。

まずもってこれは死刑廃止のひとつの理由にはなるが、それだけで死刑廃止を主張するには弱すぎる。その他死刑を存続させる理由たち(抑止力、遺族感情、その他もろもろ)との兼ね合いが必要だ。(もちろん、それを込みで主張している団体もある。彼らのエビデンスの質は一旦無視するとして。)
ここは、その国の治安、犯罪捜査のシステム、遺族感情にもし文化的な差が入り込みうるならばその辺りも加味しなければならないだろう。

そして、加害者の人権保護は、どのように決められるべきだろうか?
書きながらこの問題は法律の専門家に任せるべきだと思うばかりだが、数多の死刑廃止勧告に違和感があるのは、加害者の人権問題はあくまで程度の問題だと思えるからなのだ。
刑務所なり罰金なり、犯罪者の人権はだいたいどの国でもある程度は制限されている。国連だって罪を犯した人の権利を一切侵害せずに、言い換えれば野放しにすることを推奨しているわけではなかろう。
死刑というのはその権利の剥奪が「生命」であり「人生の残りの時間全て」になるわけだ。終身刑であれば「人生の残り時間における自由」であり、懲役刑なら「人生の残り時間の一部における自由」となろう。執行猶予の有無や、懲役刑と禁固刑の差などもある。
これらの「程度問題」について、国を跨いでまで外野から口を出されることは殆ど無いだろう。が、生命の問題になると途端に人権問題が発生する。
これは、ある国の人権問題に他国が干渉してはならないということではない。例えばジェンダー平等を考えよう。私自身は性によらずに同じ権利が認められるべきだと考えているが、それは一旦置いておいて、ある性に他の性と同じ権利を認めている国が、認めていない国に「権利を認めよ」と主張するのは筋が通っている。
それでは、ある性に他の性の半分の権利(定量化できるものではないが)を認めている国が、3分の1の権利を認めている国に「その性の人達の権利を軽視するな」と勧告したらどうか。個人的には、この点に「どのくらい認めるかの裁量は、国によるんじゃないのか」と疑問を差し挟む余地があるというわけだ。
つまり、向き合うべき問いはこうだ。
果たして死刑では加害者の人権を軽んじていて、懲役刑ではそうではないのだろうか。
生命は残り時間の積み重ねではないのだろうか。
生きる自由とそのほかの自由のどこに線引きがあるのだろうか。
こんな語気で語ってきたが、その2つの自由に線引きがあるともないとも言い難いと思っている。
いま、その議論抜きにして死刑を語るべきでないのではないだろうか。